≪駿府城下町の特徴(とくちょう)≫
日本でいち早く完成した、江戸時代初の城下町。それが「駿府城下町」です。
風水(ふうすい)の原理(げんり)を用い、富士山を借景(しゃっけい)として設計した美しい都市。 借景とは・・・庭の外にある自然を庭の背景として、庭全体の景観をつくる造園のしかた。
士農工商を反映した、96ヶ町からなる城下町(駿府城下町は武士・商人・職人が住み、農民は住んでいません。もちろん僧侶や神官はいました)。
当時の日本で第5位の人口12万人(スペイン人ドン・ロドリゴの記録から)。
ユニークな駿府城下町設計。優秀な職人・商人を全国から集めた(家康公や武士たちに奉仕するため)。
江戸より古い銀座は駿府がルーツ(現在の両替町にあった)。
全国通貨“駿河小判(するがこばん)”が造られた(場所は現在の日銀(にちぎん)静岡支店のところ)。
ロンドンの消防隊より早く火消しが登場した。
駿府の武家屋敷(ぶけやしき)は生垣(いけがき)がとくに美しかったと言われています。
駿府型町割りは、全国のまちづくりに影響を与えた(江戸より早い計画的設計)。
駿府用水が町中を流れ、用水をあふれさせて道にホコリがたつのを防いだ。
火災の時は、火元に駿府用水から計画的にたくさん給水し、初期消火活動につとめた(水道方同心が二人専属で町人を指揮して仕事をしていた)。
よその城下町より道が広かった(シーボルトの記録にもあります)。
天下人・徳川家康公のシンボルの城下町であったため、各町々で出る庶民(しょみん)の風呂水や台所の下水やごみを処理する場所がきちんとつくられていた(せり・会所と呼ばれた場所)。
鍛冶屋・鋳物屋は、火災を起こす危険性があるため、町外れに置かれた。
紺屋町は、水を汚すため流路の末端に置かれた(駿府用水は最後は農業に利用)。
駿府城下の美観には特に配慮されていた(町人たちの一日は、朝起きて家の前の清掃をすることから始まった)。
牛車は駿府城下町の特権として使用が認められていた。
宝台院は、二代将軍秀忠の生母である西郷の局の菩提寺として、江戸時代初期の寺院建築の傑作と言われている。
浅間神社は“東海の日光”と呼ばれ、美の究極(きゅうきょく)を追求した素晴らしい社殿(しゃでん)。
慶安事件(由比正雪事件)から、治安維持のため駿府城下町の職人や商人が住む町の中に駿府町奉行同心が住み着いたことが、現在の交番のルーツとなった。