「生きものを大切に」
増善寺(ぞうぜんじ)と殺生(せっしょう)

家康公は、子どもころから鷹狩(たかが)りが好きでした。この鷹狩りと人質(ひとじち)のころの竹千代に関係する話が増善寺(ぞうぜんじ)に残っています。

その一つ。ある日、寺の近くで鷹狩りを楽しんでいたところ、村人たちが「この寺は、殺生禁断(せっしょうきんだん)だ。」と竹千代をののしったのです(殺生禁断とは、生き物を殺(ころ)してはいけないということ)。

(写真)増善寺竹千代(家康公)は、自分が人質の身(み)であるから、村人たちがみんなで馬鹿(ばか)にしたのだとたいそうくやしがったということです。

そのことを聞いた増善寺(ぞうぜんじ)の宗珊(そうさん)和尚(等膳(とうぜん)和尚ともいう)は、生きものを大切にしなければならないことを教えたといいます。その後、家康公は和尚にいろいろな悩(なや)みを打ち明けて相談するようになりました。

その一つに、「自分は父親の葬儀(そうぎ)にも出ず墓参りもせず駿府に人質に来たため、一度だけでもいいからふるさと岡崎に墓参りに帰れないか」ということがありました。

幼(おさな)い身で人質はかわいそうだと同情した和尚は、今川氏の役人に見つからないように、ひそかに岡崎まで帰してやろうと決めました。その道案内をしたのが、広野の未知家(みちけ)であり、家康公をつづらに入れて、持舟(もちふね=現在の静岡市用宗)の港まで案内しました。「未知」という姓(せい)は、この道案内の「道」から来ているとも言われています。そして持舟の港から篠島(しのじま=知多半島の先端の島)へ渡った家康公は、そこに出向いた岡崎の者とともに、ひそかに岡崎に帰ることができたのです。

家康公は大人(おとな)になってもこのことを忘れず、浜松の城主(じょうしゅ)になった時、今の袋井(ふくろい)市にある可睡斉(かすいさい)という寺を和尚にプレゼントしたそうです。

増善寺(ぞうぜんじ)の裏山(うらやま)には安倍城があり、そこへ登ると広々と景色(けしき)が広がり、思わず近くをハイキングしたい気分(きぶん)になります。家康公もこのあたりを何回となく歩き、また走りまわったことでしょう。

キッズページのトップへもどる もどる つぎへ