お万(まん)の方(かた)と蓮永寺(れんえいじ)
家康公とお万(まん)の方(かた)との間に生まれたのが、頼宣(よりのぶ)(紀州家(きしゅうけ))と頼房(よりふさ)(水戸家(みとけ))です。水戸黄門(こうもん)はお万の方の孫(まご)にあたります。
1600年の関ヶ原(せきがはら)の戦で家康公が勝った2、3年後のことですから、家康公は61歳になっていました。
お万(まん)の方(かた)と呼ばれる女性は二人いますが、こちらは「養珠院(ようじゅいん)のお万(まん)の方(かた)」といい、蓮永寺(れんえい)には供養塔(くようとう)が残されています。
この養珠院(ようじゅいん)のお万の方は、たいへんな美人であったばかりでなく、日蓮宗(にちれんしゅう)の熱心な信者(しんじゃ)で、この蓮永寺(れんえいじ)のために寄進(きしん)(お金などを出すこと)をおしみなくしたといわれています。
北街道(きたかいどう)に面(めん)した門を入って左に折(お)れると立派(りっぱ)な本堂(ほんどう)が目の前に現(あらわ)れます。
家康公が鯛(たい)のテンプラにあたって死んだということはよく知られているエピソードですが、では、いつもぜいたくばかりしていたのでしょうか?
答えはノーです。江戸時代に入る前までは武士の食事はほとんど朝夕の二食で、しかも、家康公は偏食(へんしょく)と美食(びしょく)をきらい、食事の中心は麦(むぎ)めしと豆味噌(みそ)であったようです。
ある日、家来(けらい)が家康公を喜ばそうとお椀(わん)の底に白米(はくまい)のご飯(はん)をそっと入れたところ、一口食べた家康公は「わたしはケチで粗末(そまつ)な食事をしているのではない。みんなと同じ物を食べて、お前たちをいたわっているつもりなのだ。」と言い、ぜいたくをいましめたとのことです。
ちなみに、家康公が好(この)んで食べた豆味噌(みそ)は、たんぱく質が多く含(ふく)まれている栄養価(えいようか)の高い食べものの一つなのです。