「川の流れを変えて住みやすいまちへ」 慶長(けいちょう)の大改造(だいかいぞう)
家康公は駿府の町を作りあげるために、安倍川の流れを変えるという大工事を薩摩藩(さつまはん)等に命(めい)じてやらせたといわれています。これが「慶長(けいちょう)の大改造」です。
それまでの安倍川は、牛妻(うしづま)の方から流れてきて浅間神社の前で大きく分(わ)かれ、何本かの流れになって市内をとおっていたと思われます。
そのためか、今川氏(いまがわし)のころは安倍川がよくはんらんし、人々は困(こま)っていたといいます。
そこで、城下(じょうか)を大きく広げる目的もあって流れを一本化し、しかも、現在のように藁科(わらしな)川と合流(ごうりゅう)させるという大工事をやらせたのでした。
今のように大きな工事用の機械(きかい)があるわけでもなく、ただ多(おお)くの人の力を頼(たよ)りにやるわけですから、それこそとてつもない苦労(くろう)があったことでしょう。
これらの工事を薩摩藩(さつまはん)やその他の外様(とざま)大名にやらせたのです。家康公の胸の中には、外様大名がこの大工事によって大量(たいりょう)の金(かね)を使うことにより力が弱まるのではないか、との思いもあったといわれています。
この時に築(きず)いた土手(どて)を「薩摩土手(さつまどて)」と言い、現在では「薩摩通(どお)り」と呼ばれて安西(あんざい)から本通(ほんとお)りまでの道になっていますが、その一部は井宮(いのみや)の妙見さんの近くに残っており、よい散歩道になっています。ぜひ、歩いてみたいところです。
さて次は、大御所(おおごしょ)家康公のいた駿府城へ目を向けてみましょう!