「東京ドームの10倍?!」 天下普請(てんかぶしん)の駿府城

現在残っている記録(きろく)によると、慶長(けいちょう)12年(1607年)の駿府城の大きさは東京ドームのおよそ10倍もあったというから驚(おどろ)きです。

さらに、この大きな城の工事を1月末(すえ)に始めて10月末には完成しているのですから、その早さにはびっくりします。天守閣(てんしゅかく)だけでも七階だったというのに・・・。

いったい、工事にたずさわった人数はどれくらいだったのでしょうか。一日に何人ぐらいが働いていたのでしょうか。

計算式工事に加(くわ)わった大名が約50家、石高(こくだか)(大名の領地の大きさの数え方)にして1633万石(ごく)と言われていますから、単純(たんじゅん)に計算(けいさん)してみただけで右のようになります。

もちろん、これは計算上(けいさんじょう)の数なので実際(じっさい)とは異(こと)なっているかもしれませんが、いずれにしても1年もかからないで完成したことを思うと、かなりの人数が集められ、働いたことは事実です。それだけ城造りというのは、戦(いくさ)をするのと同じくらいの作業スピードが必要だったということです。

お城づくりで、人夫(にんぷ)は「鳥目(とりめ)」に?

「なんごう(長尾)ひらやま(平山)夜(よる)は無(な)し。」という言葉が長尾川の近くに語りつがれているといいます。

駿府城をつくる時、多くの人が狩(か)り出されて重労働(じゅうろうどう)をしたわけですが、長尾(ながお)や平山(ひらやま)の人たちも石垣に使う石運(はこ)びのため、夜寝(ね)るひまもなく働いたというその苦労(くろう)を表している言葉なのです。

昼も夜も働きどおしなので、中には体力(たいりょく)が続かず衰弱(すいじゃく)して死んだ人も多かったということが記録(きろく)にも残っています。

さらに、工事のために「鳥目(とりめ)」すなわち「夜盲症(やもうしょう)」にかかって、夜は目が見えなくなってしまった人がたいへん多かったということも言われています。

わずか10か月のお城づくり。多くの大名を使い、力を弱める目的もあったといわれるお城づくり。悲しい犠牲(ぎせい)とともに家康公の力(ちから)を示したお城づくりだったのでした。

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