「駿府城の不思議(ふしぎ)」 石垣刻印(こくいん)の謎(なぞ)

(写真)いろいろな石垣刻印 駿府城については、いろいろな研究がありますが、その一つに、石垣に刻(きざ)まれた「刻印(こくいん)」があります。

魚の形、扇(おうぎ)の形、ローマ字のような形、何の形やら一見(いっけん)しただけではわからないような形まで、実に種類も多いのです。これはいったい何のために刻(きざ)まれているのでしょうか。

現在、石垣の石の数は大量にあり、これらはどこから、だれが、どうして運んできたかがよく話題になりますが、実は、刻印(こくいん)の研究を進めるうちに、これらのことが少しずつ明らかになってきつつあります。

刻印にくわしい千葉県の田端(たばた)氏は、駿府城の場合、二ノ丸に207個、三ノ丸に252個あって、その種類は135であると説明しています。

これまでの研究で、刻印(こくいん)は各大名の家紋(かもん)や旗印(はたじるし)をあらわし、石を積(つ)む時にそれぞれの持ち場を示(しめ)すために石に刻んだのであろうとの説もあります。

(図表)石垣の刻印一覧しかし、よく調べてみると家紋(かもん)・旗印(はたじるし)と刻印が必ずしも一致しているものばかりではありません。むしろ、一致していないばかりかわからないものの方が多いのです。

したがって、家紋や旗印ではなく、他(た)の意味(いみ)があるのではないかという研究家もいます。

夏休みともなると、刻印を調べている大人の方(かた)や小中学校のチビッ子研究者もよく見かけます。いつの日か刻印(こくいん)の謎(なぞ)が解(と)かれることでしょう。

駿府城は3回もつくられた!?

最初の駿府城は、今から400年以上前の1587年(天正(てんしょう)17年)に完成。

ところが家康公は、豊臣秀吉の命(めい)で関東へ国替(くにが)えさせられ、駿府城の完成を待たずして駿府の地を離(はな)れたのでした。

その後家康公が天下をとり、大御所となった時に、駿府城を大改築(かいちく)しました。これが2代目の駿府城で、1607年(慶長(けいちょう)12年)に完成しました。

ところが!完成した同じ年に物置(ものおき)から出火し、御殿(ごてん)や天守閣(てんしゅかく)にまで燃(も)え広がり、駿府城の主要(しゅよう)な建物を全(すべ)て焼失(しょうしつ)してしまいました。建てたばかりの城をなくしてしまったときのショックは、いかほどのものだったでしょう。

それでも家康公は、直(ただ)ちに駿府城の建て直しを命じました。そして完成した駿府城、これが3代目となったのです。この時使った木材は江戸城に使う予定のものでしたが、それを駿府城に運んだのです。

しかし!!家康公の没後(ぼつご)、1635年(寛永(かんえい)12年)には町の火災が城に燃え移り、大半を焼失してしまいました。

以後、駿府城の天守だけは再建(さいけん)されることはありませんでした。

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