「駿府は日本一すばらしいまちだった?!」 国際都市駿府

(図絵)駿府図 駿府城の完成とともに駿府の町もにぎわってきました。

城下(じょうか)には金座(きんざ)や銀座(ぎんざ)もおかれ、全国に共通する小判や銀貨も発行され、多くの商人が呼ばれて活躍(かつやく)し、まるで日本の首都(しゅと)のようであったといいます。

町のつくり方も、城を中心に円を描(えが)くような他の町とちがい、むしろ京都のように碁盤(ごばん)の目のように広がっていました。

これは家康公が軍事(ぐんじ)都市ではなく、平和な文化都市を目指していたからなのでしょうか。

江戸時代と聞くと、私たちは鎖国(さこく)を思いうかべ、外国などとはまったく交渉(こうしょう)がなかったように考えてしまいますが、大御所の時代は決(けっ)してそのようなことはなかったのです。

事実、駿府へはいろいろの国からの使いがやってきていました。

スペイン人のドン・ロドリゴは、当時(とうじ)の駿府の感想を「たいへん清潔(せいけつ)な町で、寺(てら)の姿も美しく人口は12万ほどある」と書き記(しる)しています。当時、京都が30~40万人、大阪が20万人、江戸と仙台(せんだい)が15万人ということですから、駿府がいかに大きな都市だったかがうかがい知れます。

また、日本名の三浦按針(あんじん)で知られるウイリアム・アダムズは、各国からの使者(ししゃ)の取りまとめ役(やく)をしたとともに、「家康は世界の航海路(こうかいろ)のことをよく質問したし、常(つね)に世界地図を持ってこさせて自分の目で確(たし)かめていた」と書いています。

あの時代にあって、家康公は天下(てんか)を考え、目を広く海の外へ向けていたことがわかり、感心させられるところです。

火事が多かった駿府のまち

駿府は昔から火事が多かったそうです。駿府城も慶長(けいちょう)12年12月にできたばかりの天守(てんしゅ)や御殿(ごてん)が火事で焼けてしまいました。そこで家康公は次の天守は金属でできた瓦(かわら)を使って火事にそなえました。日本でも瓦に金属を使ったのは、天守としては駿府城が初めてだったようです。それは外国からきた鉛(なまり)を買い占(し)め、駿府城の工事にも使用し、“大坂の冬/夏の陣”に備(そな)えるため城にたくさん蓄(たくわ)えられました。さらにはその鉛で城の中に鉛御殿といって、シェルター(避難(ひなん)地)も造(つく)ったそうです。

しかし、1635年(寛永(かんえい)12年)にまたもや火事で焼けてしまいました。残念ながらその後、天守は建(た)て直(なお)されることはありませんでした。なんでだろうね?

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