はじめに
戦国の孤児から将軍へ
3歳で母親と離別した家康は、8歳で父親を失ったため「戦国の孤児」とまで言われていた。東からは駿河の今川義元が三河を侵略し、西からは織田信秀(信長の父)が三河領内を脅かしていた。このため8歳の岡崎城主松平竹千代は自国を守るためには、どちらかの勢力に従うか同盟するしかない。
そこで両親のいない竹千代は、駿河の今川義元のいる駿府に政治見習い(人質)として預かられることになり、岡崎城には今川義元の家臣が城代として乗り込んだ。やがて19歳になった家康は、今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦いで織田信長に敗れると、岡崎城に戻り自立した戦国武将となって戦国乱世の渦中に飛び込んだ。
ところが弱肉強食の力関係から、二十代の若き家康は今度は今川家の敵であった織田信長と同盟した。その信長に、妻(築山殿)と長男信康が敵国武田に内通していたとして処分を命じられると、家康は忠誠を示すために二人の命を引き換えにした。信康と築山殿の生々しい事件であり、戦国の世を象徴した悲劇であった。
多くの艱難辛苦(かんなんしんく)をなめ尽くした家康は、日本国内最大の合戦、天下分け目の関ヶ原の戦に勝利した時は既に還暦に近づいていた。やがて江戸に幕府を創設した家康は、在位2年で将軍職を息子秀忠に譲り、自らは大御所として自由な立場で幕府の基礎を固めるため駿府に移った。これが家康の駿府大御所時代である。この時代は、国政の中心地として日本の首都が駿府に置かれたようであった。
家康の駿府移住は、単なる隠居ではない。それを単なる隠居とみたら、それこそ大きな誤解であり、家康の本質を見失うことになる。家康は、徳川幕府延命のために駿府城でやらなければならない問題をたくさん抱えて駿府に乗り込んだ。駿府城や駿府城下町の造営を諸大名に命じ、彼ら大名の財力を削り、自らは天下人として揺るぎない幕府の基礎を築くことが目的であった。
大御所となった家康は、宿敵の豊臣秀頼の陣営を揺さぶり、諸大名を鉢植化政策(盆栽のように自由に動かす)によって家臣化した。また様々な権謀術数によって江戸幕府の体制を固め、一心不乱に徳川家の御代を不動のものにすることに努めた。このため大御所家康の駿府は、まさしく「謀略の基地」として、仕込まれた計画を大胆に実行した「もう一つの幕府」であったということができる。駿府は、徳川幕府の大本営であったといってよいだろう。
江戸城の、絢爛豪華な装束を身に付けた人々が交錯する姿とは別に、ここ駿府城には多くの兵士が駐屯し駿府城を固めていたことなどが、当時来日した外国人の記録にも生々しく記されている。家康はこのとき65歳であり、やり残した仕事を大胆に処理するために限られた時間と戦っていた。
そこで頭脳集団(シンクタンク)と行動集団(ドゥタンク)を駿府に結集し、ここを大御所徳川家康の活動の拠点とした。