大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて

駿府周辺の寺社

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清水寺(きよみずでら)

清水寺〔葵区音羽町〕清水寺は「清水(きよみず)さん」と呼ばれ、寺号の清水寺は京都の清水寺に似ていることから名付けられたという。昔から観音霊場として親しまれ、創立は今川時代の永禄2年(1559)に遡る。今川義元の母(寿桂尼(じゅけいに))の開創で、寿桂尼は実子(今川8代氏輝)の菩提寺として創建した真言宗の寺である。

徳川家康公は駿府城にいた頃、しばしばこの寺に参詣(さんけい)し観音堂を寄進し、念待仏の恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音の像や寺領を寄進したという。この寺の住職秀尊阿闍梨(しゅうそんあじやり)とは親しく、陣僧(戦争に同行する僧)として行動をともにしていたことは注目したい(「静岡市の史話と伝説」)。

見所
家康公寄贈の観音堂 名句碑 駿府時の鐘2代目(明治44年改鋳されたもので徳川慶喜公と徳川家達公の文字が鐘銘として刻まれている)国分寺文書 佛頭 長谷寺文書を所蔵

虚無僧寺(こむそうでら)の跡(あと)

清水寺の境内には、今は無いが「虚無僧寺」があった。この寺は深い編み笠をかぶり、尺八を吹いて明暗の頭陀袋を首から提げて行脚(あんぎゃ)する虚無僧の寺であった。伝承によると、家康公は虚無僧を使っては日本全国の情報を収集させていたという。

蓮永(れんえい)寺

家康公の側室お万の方(養珠院)の開基で、日蓮宗のお寺。元は庵原郡北松野(富士川町)にあったが、お万の方が現在地に再興した。お万の方は、御三家の水戸徳川家の頼房(よりふさ)や紀州徳川家の頼宣(よりのぶ)の生母である。有名な水戸黄門は孫に当たる。家康公が没すると、寺町の感応寺で落飾、百ケ日間は同寺で家康公の供養のための放生会(ほうじょうえ)(生き物を野山や沼地に放つ儀式)を営んだ。

お万の方は敬虔な日蓮宗の信者で、家康公が駿府城で行った仏教各派の宗門の法戦(ディベート)が行われた折、日蓮宗の僧侶の後押しをしたことで有名。蓮永寺は元和元年(1615)に駿府城を守る鬼門として現在の位置に建てられた。その建物は火災で焼失したため、現在の建物は寛政10年(1798)に建築されたものという。木造の庫裏の垂木(たるき)は見事で、自然の枝をそのまま活かした建築方法には、当時の技術の高さに圧倒され一見の価値がある。

寺には数々の寺宝が残されているが、お万の方(養珠院)の遺品が中心である。

長源院(ちょうげんいん)

大森山長源院は、曹洞宗の寺で歴史は今川時代に遡る。家康公は駿府大御所時代、鷹狩りの帰路この寺で休憩したことから幾つかの家康公縁(ゆかり)の品が残されている。この中の一つである印籠(いんろう)は、沓谷の常賀斎(じょうがさい)という者が、家康公の話し相手として駿府城に出入りしていたことから献上された。それをこのお寺に寄付したものが、今日に伝わっているという(「なこりその記」)。境内の墓地には、駿府城代の墓がある。
この辺りの地名の山脇(やまわき)は、家康公が命名したもので、寺も「山脇の寺」として親しまれている。

愛宕(あたご)神社

元亀元年(1570)家康公が、陣中の守護神として崇敬(すうけい)していた騎馬姿の地蔵菩薩(別名将軍地蔵)を駿府の鬼門除けとしてここに祀った。地名の愛宕は京都の愛宕山神の分霊を迎え、愛宕大権現としたのが始まりという。本殿は徳川初期の建物であったが、焼失したため近年再建された。

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