駿府キリシタンの光と影
イギリス国王使節の見た、駿河の迫害
慶長18年(1613)12月に発布された「伴天連(ばてれん)追放之令」は、キリシタンに決定的な打撃を与えた。この年来日したイギリス国王使節ジョン・セーリスは、駿府郊外の安倍川でむごたらしいキリシタン信者の死体の山を目撃し、その様子をこう記した。
「予らが、ある都市に近づくと、磔殺(たくさつ)された者の死体と十字架とがあるのを見た。なぜならば、磔殺は、ここでは大多数の罪人に対する普通の刑罰であるからである。皇帝の宮廷のある駿府近くに来たとき、予らは処刑されたたくさんの首をのせた断頭台を見た。その傍らには、たくさんの十字架と、なおその上に縛りつけたままの罪人の死体とがあり、また仕置きの後、刀の切れ味を試すために幾度も切られた他の死骸の片々もあった。駿府に入るには、是非その脇をとおらねばならないので、これはみな予らにもっとも不快な通路となった」(「セーリス日本渡航記」村上堅固訳)。
セーリスによると、家康は元来キリシタンは嫌いであった。それ以上にキリシタン大名たちがスペイン国王の勢力と呼応して、徳川幕府に対抗することを何よりも警戒していたと見た。家康はキリシタン信者の迫害を駿府から始めた。陰惨な弾圧と迫害が繰り返され、駿府町奉行彦坂九兵衛らが先頭に立って次々と新しい拷問のやり方が考案された。なかでも「駿河の責め苦」といいう宙釣り状態にした拷問はとくに恐れられていたという。
キリシタン信者の埋葬を許さず、火刑(火あぶり)にした。また埋葬した信者は墓から掘り出して海に捨てたこともあった。家康のキリシタン弾圧は、ローマの皇帝ネロよりも残忍であったかもしれない。