大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて

安倍川をめぐる出来事

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幻の川辺城(かわのべじょう)とは?

幻の川辺城安倍川が今日のような流れとなったのは、家康公が駿府を大御所の地と決断してから流路の大改修が行われたためである。それまでの安倍川と藁科川は、全く別の流れであった。そのために築かれたのが薩摩土手である。家康公は中世以前から自由気儘に流れていた川の流れを大改修し、今日、私たちが目にする現在の安倍川の流れとなった。

こうして安倍川と藁科川が一つの流路となると、大御所家康公は近世日本最初の城下町「駿府城下町」を誕生させた。最初の駿府城の計画は、安倍川左岸の川辺に安倍川を利用して運河を作らせ、川辺地区にお城(川辺城)を造営する計画であった。その計画によると、川辺城には天守の真下に南蛮船が接岸できるという壮大な城作りの計画であったというのが「当代記」などの記述である。

ところが暴れ水として知られる安倍川の現状から、この計画はとても不可能ということになった。結局駿府城は、天正時代(1586-90)に家康公が築いた城を拡張することで決着した。これが私たちの目にしている現在の駿府城である。

川辺城は幻に終わったが、駿府城下町は改修された安倍川左岸に見事に完成した。駿府城下町こそ、近世日本最初の計画的に造られた「士庶別居住区域の原則」(身分によって住み分けること)を体現した城下町であった。安倍川と大井川は、軍事的配慮から橋を架けることが禁止され、東海道を行き交う旅人は徒歩での川越が義務付けられた。このため安倍川の水嵩(みずかさ)が一定の深さになると、その時には「川留(かわどめ)」といって危険なため通行が禁止された。

泉水(せんすい)の水

家康公は駿府城を築城した折、城内の庭園の泉水(せんすい)に安倍川から水を引き入れるよう命じた。奉行衆は予定のコースに杭を立てておき、家康公は鷹狩りの帰りに現地を見分した。すると水筋にお寺があり、それを見た家康公は「寺を潰してまで取水するはいらぬこと、泉水は慰めの事である」と伝えて、水筋を変更したという(「稽徳録」より)。

樋泉(といずみ)

樋泉という地名が現在の駿河区泉町にある。「昭和6年までは「樋泉町」(といずみちょう)と呼ばれている地名で、戸籍にも記されている。その昔、現在の静岡駅周辺は、安倍川の伏流水として流れていたため、安倍奥を水源とする綺麗な水脈が流れ、この辺りで一気に溢れ出てていた。そのため清水尻(シミンジリ)とよばれた湧水池帯であった」と語るのは泉町にお住まいの萩原敦子さんである。この湧水は柿田川遊水地に劣らないほどの広大な規模であったという。

この周辺は、新幹線と静岡駅の工事で一変したという。世紀の大工事で周辺人家の移転もさることながら、水を守るお地蔵さんも引越した。地続きの旧川辺村字天坪も昔は一つの村で、大御所時代には家康公に仁兵衛なる人物の井戸水は名水で、お城に御茶の水を運んでいたと伝えられている。仁兵衛の屋敷から一つの壺が出土し、名器とされて宇治に遣わす茶壷(天壺が茶壺の名前になったとも)の一つに加わったという(萩原敦子様談)。

簓村(ささらむら)

現在駿河区馬渕の一部になっている区画に、大御所時代にササラと呼ばれた村があった。ここでは竹を細かく裂いて鍋釜を洗うタワシの様な簓を作って暮らしをしていた。簓は古くは舞楽に使用していた関係から、時々駿府の町に出ては音曲を披露していたという。

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