駿府キリシタンの光と影
岡本大八事件とキリシタン弾圧
徳川家康の「キリシタン禁教令」は、慶長18年(1613)に発布された。正式名は、「伴天連追放之令」という。初めは、駿府より幕府直轄領に布告され禁止されたものであった。京都の教会を破壊させたのもこの時期と一致している。発端は、本多正純の寄力であった洗礼名パウロと呼ばれた岡本大八が、肥前のキリシタン大名有馬晴信を欺くために、大御所家康の朱印状を偽造したことが発覚したことによる。大八は慶長17年(1612)3月、駿府市街を引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられる前に、拷問に耐えかねて駿府の主なキリシタン信者の名前を白状したため、このときに多くの関係者が捕えられている。有馬晴信も、同年5月に家康の命によって処罰された(「当代記」)。
キリシタン信者の実態調査の命令を受けた駿府町奉行彦坂九兵衛が、さっそく取り調べると、家康の周辺に多くのキリシタンが取り巻いていることが露見した。その中には、家康の鉄砲隊長原主水もいた。のちに捕らえられた原主水は江戸に引き回され、元和9年(1623)12月4日の朝にキリシタン50人とともに処刑された。このとき、諸大名を前にして処刑したのは彼らに対する見せしめのためであった。フランシスコ・ガルベス神父やアンジェリス神父も同時に処刑されたが、彼らの遺骸が信者によって一晩でどこかへ運び去られたことは有名な話である。