大御所の城「駿府城」とは?
駿府城について
家康公の居城「駿府城」がどんな経緯で建築され、どんな城であったのか予備知識としてお読み下さい。現在は天守もありませんが、東御門や巽櫓、それに本丸の堀が一部分発掘された場所もあり、大御所時代の駿府城を実感できる場所もあります。
また駿府城の特異な構造して注目される水路、これは清水港まで通じていたもので、その場所も発掘され、珍しい遺構として現存しています。また船が出入りする場所が、珍しい枡形門として現存するのも駿府城ならではの遺構として残っています。駿府城は大御所家康公の晩年の居城として、決して大きな城ではありませんが、当時来日したスペイン人たちが駿府城を訪れ、その美しさに驚いた記録も残されております。
城と言えば「天守」が真っ先にイメージされますが、家康公は駿府城の天守を3回も造営しております。そんな駿府城の歴史的概略を紹介します。
第一回目 天正期の駿府城
天正10年〔1582〕武田勝頼が滅びると、駿府は家康公の御領国となります。天正14年〔1586〕の9月11日、家康公は駿府のこの地に「天正期の駿府城」を築城しました。つまり五ヶ国の領主として「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃」の五ヶ国を支配していました。その時に家康公は、この駿府を支配の拠点としていました。
その期間は四年間でしたが、家康公は浜松から駿府に移ると、駿府城を早期に完成させようと工事が進んでいたのです。時の駿府城の築城奉行は松平家忠で、工事の様子は家忠の残した「家忠日記」に断片的に登場します。例えば、「天正16年(1588)5月12日、この日御天守なる」といった記述が見つかります。つまり天正期の駿府城の完成は、この時代に工事が進められていましたが、それがどんな形の城でどんな御殿や天守閣を有していたものかは不明です。「当代記(とうだいき)」などによると、現在の駿府城のある場所と同じでしたが、三の丸は無かった様子です。
天正期の駿府城はこうして完成しますが、ところが小田原の北条征伐が豊臣秀吉によって行われることになると、家康公は攻撃の先鋒隊として進撃しました。この戦いに勝利した家康公は、東海五ヶ国の大名であったが、天正17年3月12日駿河国は関白秀吉の領国となり、中村式部少輔一氏が駿府城主となって着任します。替わって家康公は、東海五ヶ国を手放す代わりに関東に国替えとなって「伊豆・相模・武蔵・下野・上野(こうずけ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)」の凡そ250万石の大大名として江戸に移ります。
家康公は完成間近いであった駿府城に入ることが出来ず、関東の江戸に移って太田道灌が築城した江戸城の大々的修復に取り掛かったのもこの頃でした。
一方、慶長5年〔1600〕の関ヶ原の戦いに勝利した家康公は、今度は事情が一変し、天下人のコースを真直(まっし)ぐらに進んでいきました。天下の事情が一変し、家康公の時代になったのです。今度は駿府城主を、家康公は身内の内藤三左衛門信成に与え、豊臣家臣であった中村氏と交代させます。豊臣秀吉配下の駿府城主中村式部少輔一氏は、この時には既に没していたため、息子の忠一(ただかず)が伯耆(ほうき)国〔鳥取県〕米子城主として改易されました。内藤三左衛門信成は、韮山城主から抜擢され駿府城主となりましたが、家康公が大御所として駿府城主となると、慶長11年〔1606〕駿府城を家康に明け渡し自らは長浜城主として琵琶湖の長浜に移ったのです。
第二回目 慶長期の駿府城
征夷大将軍の座を息子の秀忠に譲った家康公は、今度は大御所として駿府に来ることになります。家康公は安倍川と藁科川を合流させ、駿府の町を大々的に大改造しました。それまでの駿府の町〔中世戦国時代の町〕は一部消滅したといわれています。代わって家康公は、近世江戸時代になって最初の城下町「駿府」をここに出現させたのです。
このための大々的な駿府城下の土木工事が実施され、駿府は全く新しい大御所の都、「駿府城と駿府城下町」が誕生しました。駿府城下町こそ、日本にはじめて誕生した江戸時代最初の城下町ということになります。それまでも城下町はありますが、それらの城下町は中世の色彩を色濃く残した閉鎖的な町であったのに対して、駿府城は開放的で士農工商の考え方を繁栄していたため、農民が町の中に居住していません。これを「士庶別居住区域の原則」と呼んでいます。戦国時代は武士と農民の区別がなかったのですが、江戸時代になると完全に「士農工商」が成立します。その魁(さきがけ)の町の誕生が駿府といわれております。
駿府城は慶長12年(1607)7月3日に完成すると、この日に家康公は新装されたに駿府城に入城したことが「当代記」その他の記録にも記されています。駿府は以後10年余りの間、つまり家康公の存命中は「大御所家康公の御座所」として、ここ駿府が大御所政治の檜舞台となったのです。
ところが新築されたばかりの駿府城は、残念なことに同年12月22日に大奥の局の物置〔布団部屋と言われている〕で使用していた手燭(てしょく)の火が原因でここから出火して、御殿や天守閣にまで燃え広がり大火災に発展し駿府城の主要な建物を全焼失しました。
家康公はこの火災で急遽竹腰小伝次の宅に移り、翌日に本多上野介の宅に移動した記録があります。家康公は全焼した駿府城の建物を直ちに再建するよう命令を出し、具体的工事の執行は年が変わった慶長13年〔1608〕正月からはじまります。この駿府城再建工事のために、家康公は江戸城で使用予定であった材木を駿府に運ばせています。この点からも、江戸より駿府城の再建を優先させたことになります。
火災で焼失したため、慶長12年の駿府城天守閣がどのような形であったのか全貌がほとんど分かっていないのが現状です。
慶長期の駿府城〔慶長期二回目〕
慶長13年に再度駿府城の天守や御殿が造営されていきます。この時に完成した駿府城天守については、静岡市教育委員会で平成11年に調査した「大御所徳川家康の城と町」〔駿府城関連史料調査報告書〕によって、かなりその概要が分かってきました。度重なる火災から、家康公は駿府城内に鉛御殿〔シェルター〕を建設していたことが「名乎離曽の記」〔天保11年(1840)加藤勒負著〕に記されています。
それによると、「神祖三回忌の時、沓谷(くつのや)の郷、貞松山蓮永寺と申す寺へ、秀忠公より寄付し玉ひしが、安永3年(1774)正月二十日回禄〔火災〕したるなり」とあります。鉛御殿と言っても、具体的には「瓦を鉛で葺いていた」ため呼ばれたと、天保11年に加藤勒負が蓮永寺の住持から聞いたこととして記したものがあります。したがって、建物全部が鉛の塊で出来ていたと想像しがちですが、そうではなかったようです。
慶長13年に完成した駿府城も、今度は家康公没後の寛永12年〔1635〕11月茶町からの出火が原因で、その火が城内に飛び火して豪華絢爛なる天守や御殿をほとんどまた失ったのです。駿府城がどんな城であり、また建築されていた建物がどんな建物だったのかを知るためには二条城を参考にして下さい。つまり二条城も駿府城も、大工の棟梁が同一人物であり、このため内部の意匠その他が酷似していたと言われています。
また駿府城本丸御殿の庭も、二条城同様に小堀遠州によって造られていたため、駿府城の在りし日の御殿を想像することが出来ます。庭も同様です。つまり天皇や公家文化に対し、駿府城も二条城も武家文化を遺憾なく自信を持って作り上げたものということになります。残念ながら、二条城の天守も焼失してありません。しかし、洛中洛外図にその雄姿が描かれています。