大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて

番外

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家康公の壮大な計画 「大航海時代を意識した町造りと城」

家康公は駿府を大御所の地と決めると、想像を絶する発想で「駿府城」と「駿府城下町」の壮大な計画を発表した。それは「大航海時代」を意識した都市計画(設計)で、外国船(ガレオン船)が長崎や平戸だけでなく、駿府城下にも投錨できるよう港を建設することである。家康公は駿府に大船を接岸させ、ここを日本の国際的外交の拠点にしようと考えた。

このことについてウイリアム・アダムズの記録を辿っていくと、興味ある家康公への指摘と一致する。それは、従来の港(長崎や平戸)より、来日するイギリス人のためには関東や浦賀あるいは駿府が候補地になっていたことである。スペイン人やポルトガル人と競合させない方が得策と考え、アダムズは平戸や長崎や江戸でなく、駿府に直接来るための方策を考えていたのであった。

そのためアダムズは、「国王陛下の城に近い日本の東部、つまり北緯35度10分辺りが良い」と考えイギリス国王使節セーリスにも、アダムズは「イギリス商館の設置場所をこちらに」と薦めていた。江戸の町は北緯36度にあり、自分の領地(三浦半島逸見)も駿府同様に視野に入れていたことになる。ところが駿府は安倍川の脅威によって、家康の計画が変更となってしまった。ただ江尻の清水港という言葉はアダムズの記録には出てこないのが気にかかる。アダムズは清水港の海流が複雑で、帆船での清水港への入港は危険と考えていたのだろう。

家康公が夢見た幻の駿府城と駿府城下町、それはだいたいこんな計画であった。安倍川を大改修し、駿河湾から運河で駿府城と城下を結び、天守の真下にヨーロッパ諸国からの船舶を着岸させるといった壮大なものだった。幻の「川辺城を拠点とした城と城下町の建設構想」であったらしい。ところが安倍川の流れは時として凶暴な暴れ水となり、実現的に不可能ということで現在の駿府城に落ち着いたのである。家康公の、壮大なロマンが読み取れる構想であった。「当代記」によると、「大御所駿河に至り府中に着き給う。城場の事、今の城より南河野辺と云う所へ移され、来年普請有る可きと也…」とある。

また「駿河志料国府別録」によると次のように記している。

「慶長十一年三月十五日神君江府を御首途あり。二十日駿州府中の城に着御せられる。当城主内藤豊前守信成を来歳得替あらしめ、神君御退隠の城郭たるべき由にて、四日ここにて御滞座ありて、城郭の内外巡件視し給う。十月六日、神君駿州府中の城に着御せらる。当城を河の辺の地に移し築かるべきの旨御沙汰あり。十一月六日頃日評議をてらされて、駿州府中の城を河のべの地に移さるることをとどめられ、当時城郭を南北へ広く築き出すべきの旨に決す」(「駿河志料国府別録」)。

確かに大御所時代の諸外国からの外交使節の記録を覗いて見ても、日本の政治と外交はこの駿府を中心として動いていた。幻の「川辺計画」が実現しなかったとはいえ、アダムズや家康公の指摘は示唆に富んでいた。アダムズの記録をもう一度正確にみてみよう。

「日本の東部、北緯35度10分で、ここに国王陛下の城があります。もし我が国の船がオランダ人のいる平戸に来れば、そこは幕府から230リーグ(1リーグは4.8キロ)も離れており、その間の道は退屈で不潔です。江戸の町は北緯36六度にあり、この地の東側はいくつかの最良の港があります。沿岸は開けていて、本土から2分の1マイル沖まで浅瀬や岩は一切ありません。

もし船が東のほうの海岸に来れば、私を訪ねてきてください。私は日本語で按針様と呼ばれております。この名前で、私は沿岸の全ての人々に知られております。本土に近付いても心配は全くありません。なぜならあなた方をどこでも好きな場所につれていってくれる水先案内の小帆船がありますから。船がここに来たとき、あなた方の会社の働く人々と混じって、私も皆様の満足のいくようお仕えできることを切望しております」(「日本に来た最初のイギリス人」幸田礼雅訳より)

駿府城が海と連結する夢を捨て切れなかった家康公は、清水港から巴川を上って新しく出来た駿府城まで通ずる水路を完成させている。このため駿府城には、水櫓(みずやぐら)や清水港から通じる水路が立派に残っている。「武徳編年集成」(慶長5年)7月の項目によると、清水港より沓谷筋まで船が入るように開鑿を角倉了以に命じたことが記されている。ところが大工事は不可能で、現状に留まったが念願の清水港からの通船は可能となったのである。

大御所時代に駿府を訪れた主な出来事

慶長14年10月 家康、駿府城でロドリゴや船長らを引見
同年10月 家康、駿府城でスペイン船の船長モリーナを引見
同年10月 家康、フィリピンの新総督に返書
同年12月 ポルトガル船、長崎で有馬の攻撃を受け沈没
15年1月 ソテロ、スペイン国王へ家康の協定案を作成(ソテロは、スペイン国王と家康双方の協定案を作成)
同年5月 ロドリゴは、アダムズの船で田中勝介らと太平洋を越えアカプルコへ旅立ち、9月カリフォルニアに到達
同年8月 琉球国王、駿府城で家康に拝謁する

焼津が世界に誇る「八丁櫓」

八丁櫓(NPO焼津八丁櫓まちづくりの会蔵)家康公の造船と言えば、焼津の漁師だけに許可した造船がある。それが江戸時代から明治にかけ、焼津で活躍した「八丁櫓」である。

水産都市焼津の基礎は、実に大御所家康公の御墨付によるものであった。「八丁櫓」は、日本古来の和船技術で、日本が世界に誇る独特な造船技術を用いていた。現在、地元の船大工・近藤友一郎さんが模型によって伝承している。

キリシタン信徒弾圧事件

原主水像〔静岡カトリック教会・葵区城内町〕東海道は美しく整備され、最終的には江戸から京都まで53の宿場が設置されたのも家康公の時代であった。街道を往来する旅人の中にはイギリス人の記録も残され、酷寒の最中でも旅人を介助しながら川を越える川越人足の苦労や、また駿府で始まったキリシタン大弾圧によって、安倍川の河原に晒(さら)されたキリシタン信徒の処刑場の様子が記されている。

そんな時期に徳川家康公の家臣であったキリシタン岡本大八の重大な犯罪が発覚した。このため慶長16年(1611)2月23日に安倍川の処刑場で火刑に処せられた。岡本大八の上司であった原主水(はらもんど)もキリシタンであったことから、彼は両手の指を切られ、火印(焼印のこと)を額にあてられ追放となった。

藁科川右岸の牧ヶ谷の耕雲寺住職は、怪我をして空腹に苦しむ原主水を匿(かくま)っていたことが、駿府町奉行彦坂九兵衛の配下に発見され住職も同罪として寺は廃寺となった。原主水は江戸送りとなって、江戸の鈴が森で処刑された(「徳川実記」)。原主水の銅像は、駿府城内の静岡聖母幼稚園にある教会の横にある。

駿府キリシタンに関わる出来事、これは意外に資料が豊富で、しかも駿府に来た外国人の手記によって詳しく記されていた。中でも家康公に謁見したスペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノの自著「ビスカイノ金銀島探検報告記」によると、駿府城下町には2箇所の教会があり、家康公の侍女や侍たちの中にも敬謙なキリシタン信者が多く、しかも熱心に信仰していたことが昨日の出来事の様に伝わってくる。

ビスカイノが出会った大奥の3人の侍女(ルシア・ジュリア・クララ)達が、その後キリシタン信徒迫害で数奇な運命に翻弄されたことは、キリシタンパードレ(宣教師)が具体的に記録していた(「ビスカイノ金銀島探検報告記」、「日本キリシタン教会史」)。

大奥の侍女・ジュリアの信仰と追放

キリシタンの鏡・ジュリア、このジュリアのことをアビラ・ヒロンはこう書き記した。「(駿府城)大奥の侍女ジュリアも追放し、僅かの漁夫しか住まない無人の島、八丈の島に送った。ジュリアは今ではその島で厳しい労働と貧困に耐えている」。駿府城大奥の侍女として仕えたキリシタンの女性の消息を、いち早くキャッチしていたのには驚く。

ジュリアの出生は明らかでない。秀吉の命令で朝鮮に出兵したキリシタン大名小西行長が、戦乱で苦しむ朝鮮貴族の少女(絶世の美女という)を養女として日本に連れて帰ったとする説が有力だ。この少女がどうして大奥の侍女として、特に駿府城内で生活することになったのかは謎である。おそらく関ケ原の合戦で亡びた小西家の養女であったことから、何らかの縁で駿府城大奥の侍女となった可能性は高い。

ジュリアが外国人の記録に初めて登場したのは、ジョアン・ロドリゲスの「日本年報」であった。「日本キリシタン殉教史」もジュリアのことをこう報告している。それによると、「公方様(徳川家康公)の大奥に仕えている侍女の中に数人のキリシタンが居て、前にアグスチノ津の守殿(小西摂津守行長)の夫人に仕えていた高麗生まれの人がその中にいる。彼女の信心と熱意とは、たびたびそれを抑制させねばならないほどで、多くの修道女に劣らないものである。(中略)高徳のこの女性は、昼間は、大奥の仕事で忙しく異教徒たちの中にいるので、夜の大部分を霊的読書と信心に励んでいる。(中略)そのため、誰にも知られないようにうまく隠した小さな礼拝堂を持っている。(中略)またたびたび知人を訪問するという口実で許可を得て、教会に来て告白し聖体を拝領する……うら若い女性で、あのような環境の中で、「茨の中のバラ」(讃美歌)のように純潔で、自分の霊魂を損なうよりも命を捨てる決意を固めている」。

この史料からすれば、ジュリアの出自はやはり朝鮮とみて良いであろう。アロンソ・ムーニョも彼女のことをマニラ管区長にこう報告した。「皇帝の宮廷(駿府城)にいる1女性は、キリシタンたちの間でドーニャ・ジュリアと呼ばれ、信仰深く、慈悲の模範になっている。貧しいキリシタンたちを訪ねては多くの人々に食物を施している。たびたび教会に来て熱心に聖体を拝領している。迫害が始まったことを知ると、教会に来て告解と聖体拝領をした。遺言書や必要な準備をし、所持品を貧しいキリシタンに分け与えた。将軍(家康公のことか)が欲求のまま呼び出して侍らせる妾ではないかと思われたので、神父は、はじめ聖体を授けようとしなかった。(するとジュリアは)「もしそんなことがあったら、私はそこから容易に逃げ出せます。それができないようだったら死を選びます」と言ったという。この女性は大奥にあって常にキリシタンとしての態度と、信心を保ち、われわれが同宿を必要としているのを知ると、自分が養子にしていた12歳の少年を同宿として教会に行かせた」(「日本キリシタン殉教史」)。

家康公も当然ジュリアが信者であることを知っていた。キリシタン信者の迫害が駿府で始まった時も、家康公は彼女を殺さずに島流しとしたのだった。よく言われていることは、改宗させて自分の側室にしようとしていたという説もある。余談だが駿府城内の情報や秘密は、信者から宣教師に広がって国外に情報が流れた可能性もある。事実、宣教師たちも布教と称しては多くの人々に近づき、城内の者や出入りの商人を入信させては家康公の周辺でスパイ行為をさせていたとしても不思議ではない。

こうなると家康公も、もはやキリシタン信者を野放しにしておけない。このころ駿府城内では原因不明の出火が続いていたが、これもキリシタンとの関係が取り沙汰されていたが大坂側の豊臣の反対分子によるスパイ説もある。

大奥の侍女ジュリアは、このころに駿府の町にある教会に通いビスカイノやソテロなど多くの宣教師とも会っている。慶長17年(1612)のキリシタン禁令によって、ジュリアは最初は大島に島流しとなり、さらに伊豆の孤島(神津島)に流された。慶長19年(1614)のキリシタン年報によると、セバスチャン・ウィエイラの記録としてジュリアは神津島に送られた様子が伝えられている。ウィエイラが果たしてジュリアが流された場所まで連絡を取ることができたかどうかは疑問が残る。

ウィエイラの記録は殉教を美化した創作という説もある。また「日本殉教者一覧」の中にはジュリアの名前はない。彼女がキリシタン信者として処罰されたのではなく、流刑の罪状「スパイ容疑」として島流しとなったという説もある。巷間では、ジュリアに心を寄せていた家康公が、島流しならいずれ改心して駿府に帰って来ることを期待したとする見方である。ところがジュリアは神津島で、心安らかな信仰生活を続けてそこで亡くなった。現在でも伊豆の神津島には、数年に一度は韓国からの大型巡礼団が客船をチャーターしてホテル代わりとしお参りに来るという。

イギリス国王使節の見た、駿府の迫害

慶長18年(1613)12月に発布された「伴天連(ばてれん)追放之令」は、キリシタンに決定的な打撃を与えた。この年来日したイギリス国王使節ジョン・セーリスは、駿府郊外の安倍川でむごたらしいキリシタン信者の死体の山を目撃し、その様子をこう記した。

「予らが、ある都市に近づくと、磔殺された者の死体と十字架とがあるのを見た。なぜならば、磔殺は、ここでは大多数の罪人に対する普通の刑罰であるからである。皇帝の宮廷のある駿府近くに来たとき、予らは処刑されたたくさんの首をのせた断頭台を見た。その傍らには、たくさんの十字架と、なおその上に縛りつけたままの罪人の死体とがあり、また仕置きの後、刀の切れ味を試すために幾度も切られた他の死骸の片々もあった。駿府に入るには、是非その脇をとおらねばならないので、これはみな予らにもっとも不快な通路となった」(「セーリス日本渡航記」村上堅固訳)。

セーリスによると、家康公は元来キリシタンのことが嫌いであった。それ以上にキリシタン大名たちがスペイン国王の勢力と呼応して、徳川幕府に対抗することを何よりも警戒していたと見た。家康公はキリシタン信者の迫害を駿府から始め、陰惨な弾圧と迫害を繰り返していた。駿府町奉行彦坂九兵衛らが先頭に立って次々と新しい拷問のやり方が考案されていたという。なかでも「駿河の責め苦」という刑がある、これは宙釣り状態にした拷問で特に恐れられていた。

キリシタン信者も埋葬を許さず、火刑(火あぶり)にし、また筵に包んで海に投げ捨てていた。埋葬したことが分かると、その信者の遺体は墓から掘り出して海に捨てたこともあった。家康公のキリシタン弾圧は、ローマ皇帝ネロよりも残忍であったかもしれない。イギリスのオックスフォード大学には、日本語に解読されていないキリシタン迫害の史料があるという(著者がオックスフォード大学で見聞)。

大御所康公の最期

家康公の晩年は、とても75歳の老人とは思えないほど政務とスポーツ(鷹狩り)を繰り返して元気だったようだ。いよいよ最後の年、つまり元和2年(1616)4月の死の直前の様子を「徳川家康公」より見てみよう。

「元和2年(1616)正月21日、家康公は駿府城を出発して藤枝の田中城に赴き、鷹狩りを楽しんだ。その夜、にわかに発病した。しかし快方に向かったので、25日に駿府城に帰ったが、将軍秀忠公は憂慮(ゆうりょ)に堪えず、2月1日辰刻〔午前8-9時〕江戸を発し、昼夜兼行して2日戌刻〔午後8-9時〕駿府に到り、父の病床を見舞った。

それより病状は一進一退の観あり、回復が芳しくないので、女御・女院・親王・公卿(くげ)衆・門跡衆・諸大名・諸社・諸寺の社人・僧衆等の見舞が引きもきらず、秀忠公は毎日必ず病床を訪れ、朝廷では三宝院義演に勅して普賢延命法を清涼殿に修せしめられ、3月17日公を太政大臣に任じたまい、勅使広橋兼勝・同三条西実条は27日駿府城に臨んでその口宣を伝えた。公は感激して謹んで天恩を拝受し、叮重に勅使を饗応した。29日には駿府に滞在している公卿衆・諸大名に暇を与えてそれぞれを引揚げさせ、多くの大名に形見の品々を頒ち与えた。再起の不能を知ったのであろう。

家康公霊廟〔久能山東照宮〕4月になった。病状は次第に悪化する。4月2日公は本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を召して、死後の処置に就き、遺体は駿河久能山に葬るべきこと、葬礼は江戸増上寺にて行うべきこと、位牌は三河大樹寺に立つべきこと、1周忌を過ぎて後、下野日光山に堂を建てて勧請すべく、これによって関東の鎮守となるべき旨を遺命した。11日には林羅山を召して、文庫の蔵書の処置に関することを遺言した。これが最後の遺言であり、この日より一切食事を取らず、意思表示もない。

4月17日になった。巳の刻(午前10時半頃)前征夷大将軍太政大臣一位徳川家康公の霊は静かに神あがりせられた。75年の生涯の幕は安らかに降りたのである。」(「徳川家康公」-東照宮350年奉斎会-)

隠された家康公の最期

「長尾川流域のふるさと昔ばなし」に「隠された徳川家康公の最後」ということが記されている。それによると、従来の説は「家康公は元和2年(1616)正月21日に、焼津の小川付近で鷹狩りをした日の夜に、藤枝の田中城で京都の豪商茶屋四郎次郎がおみやげに持参したオリーブ油で揚げた興津鯛の天婦羅を食べ過ぎて病気となった」というものである。ところが「焼津市良知家」伝来の史料によると、「元和2年正月、焼津の小川の近くで狩を終わった家康公の一行が、惣右衛門宅(現焼津市一色-御手洗家・現在は良知と改正)に引きあげるころ、田圃(たんぼ)道にはすでに夕暮れがせまっていた。木屋川(小川港に注ぐ川)のすすきの陰に黒い影が走ったかと思うと、ダダーン、と鉄砲の音がしじまを破った。びっくりして飛び上がった馬から家康の丸い体がうす氷の張った泥田に転げ落ちた。凶弾が家康の胸をつらぬいたのだ。

一行は、家康を惣右衛門宅に担ぎこんだ。家康の顔は苦痛にゆがみ、蒼白になっていた。小康を得て駿府城に帰ったのは2・3日後のことであった。その後病状が悪化し、遂に4月17日、75歳の生涯を終わった」(同書引用)というものである。これとは別の情報として、マニラのサント・トーマス大学ロザリオ文書館には、徳川家康公が殺害されたという宣教師の古文書が残されている。この事件と符号するのかどうかは定かでないが、井手勝美氏が発見し紹介している。

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