大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所・家康公史跡めぐり

駿府城 ~スタートは駿府城から~

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駿府公園 JR静岡駅から徒歩約10分

大御所・家康公史跡めぐりのはじまり

駿府城空撮大御所家康公が駿府城に出入りした重要な門は、静岡県庁の建物に向かって右側にある。それが駿府城三ノ丸大手門。ここには立派な石が積まれ、真直ぐ城内に侵入できないよう鉤(かぎ)の手(屈折して内部が見えない仕掛け〕になっている。ここから駿府城三ノ丸に入城する。駿府城内の見所は12ケ所設定している。大手門から入城し、最初に東御門の展示を見てから駿府城内のコースにしたがって見学していただくと良く理解できる。
また、駿府城内の東御門と巽櫓は、日本国内で最も忠実に再現された本格的木造の城郭建築である。この建物の中には、駿府城や駿府城下町の立派な模型などが展示されておりますので見逃さないで欲しい。ここを見学すると駿府城の仕組みや、また江戸時代に入ってから日本で最初にできた駿府城下町や大御所時代の様子が手にとるように理解できる。それでは駿府城に御入城を願う。東御門では、大御所家康公が皆様を出迎えてくれる。


駿府城内の見学場所

1.三ノ丸大手門(大手御門)

お城出入り鑑札駿府城に入城する最初の門、それは三ノ丸大手門である。この門は身分の高い人(徳川一門・御三家・譜代・高級武士・天皇の勅使・大名・僧侶・公卿・側室)などが出入りし、その他の人物は横内御門・草深御門・四つ足御門から身分にしたがって三ノ丸に出入りする門である。
  三ノ丸には現在県庁・裁判所・学校・静岡市民文化会館 などがあり、三ノ丸大手門は県庁前の入口ではなく、県庁に向かって右側にある頑丈な石積に囲まれた場所が昔からの大手門入口のため、ここから大名になった気分で堂々と入城したい。石積みが90度に曲がった石垣の下の歩道を見ると、むかし大手門があった場所がわかるように門の基礎となる石が置かれていたことを示すサインが目印となる。
  昔のお城出入りには、鑑札札がないと一切出入りできなかったため、家康公の息子たちでも、門限を過ぎると締め出された記録も残っている。

2.四足御門

葵区中町の静岡市立病院側にバス停があり、そこから城内に入る石垣が四足御門である。かつての石垣と異なり、入口が広くなっているため往時の面影はない。この門からの出入りは、主に軍用であり、駿府定番を筆頭に大御所家康公と駿府の町を守る武士団の出入口といわれている。駿府御定番の屋敷は現在の市立病院の辺りにあった。
  慶長12年〔1607〕閏4月29日、初めて大番が三組駿府城に配置されたのが始まりという。家康公没後、駿河大納言忠長が駿府城主となると一時大番組は中止されたが、寛永9年10月23日、大御番が一組在番することになった。駿府御定番は老中支配で、千石高で御役料七百俵が支給されたという。御定番の下には、御定番御目付が配置され二・三千石の旗本から選ばれたという。
  駿府御定番は配下に与力10人が配置され、駿府城の城門の警備についた。与力の下には同心50人が配置され、交代で駿府城の御城門の警備に配置されていた。寛永期の御定番渡辺監物の子ども供は、後に江戸で活躍した有名な文学者戸田茂睡である。彼は駿府城三の丸で誕生した。

3.横内御門と町奉行所〔横内組〕

大御所時代には、横内御門の前にも町奉行所が置かれ横内組と呼ばれ、大手組と区別されていた。元禄15年〔1701〕9月、横内組町奉行の天野四郎富重が赴任を命ぜられが、堺町奉行に急遽転じてからは、行政改革の目的から横内組〔横内町奉行所〕は廃止された。

町奉行所の仕事
町奉行の正装『江戸の司法警察事典より』以後は大手組が一人役となり、駿府町奉行所として幕末まで駿府の町を支配する慣わしとなった。理由は幕府財政の建直し、つまり倹約である。町奉行の仕事は、武家地・寺社地を除く町、および町々の町人を支配し町人に関する立法・司法・行政を所管した。事実、寺社での事件その他は、町奉行の管轄でなかったことが臨済寺末寺の松源寺の事件と関係した貴重な古文書が伝えている。
 一方周辺村々の支配は、駿府代官所の支配下に置かれた。駿府町奉行の所管は、江尻宿と丸子宿も支配下に置かれ、東海道を上下する通行者〔諸大名の監視も含めて〕江戸上方筋の押さえとなり、清水港の取締も駿府町奉行の重要な職務の一つであった。また身分ある人物の城下町通行の折に、町の清掃その他を厳重に取り仕切ったのも町奉行である。

4.草深御門

この門は現在の体育館に出入りする門で、石垣は大きく広げられたため、残念ながら昔の面影はない。この門は、上・下草深周辺〔現在の西・東草深町のこと〕に居住していた武士〔三加番を含めて〕たちが駿府城へ登城する場合の通用門であった。この門から入り、次に二ノ丸に通じる門、つまり北門から二ノ丸に入城した。
  家康公御在城当時の駿府の地図を見ると、現在の東草深や西草深周辺は殆ど武士たちの武家屋敷で埋められていた。

5.二ノ丸大手門(二ノ丸御門)

二ノ丸大手門の在った場所二ノ丸大手門は、三ノ丸大手門から次の二ノ丸に出入りする門である。現在は県庁裏から二ノ丸に出入りする橋があるが、これは静岡連隊が出来てから造られた橋で、江戸時代には存在しない。こうした後世に架けられた橋が駿府城には幾つかあるため、昔の図面を持参して区別したい。
  逆に、昔の出入り口となっていた重要な門が現在では石垣で塞がれて現存しないこともある。本来の二ノ丸大手門は、県庁裏から入る橋だ。これは前述したように本来の橋ではなく、この橋の左側の石垣を眺めると石積みが異なる場所が見える。そこが本来の二ノ丸に通じた二ノ丸大手門の橋が架かっていた場所である。
  ここから二ノ丸に入ると、複雑で幾つもの蔀(しとみ)があって、二ノ丸の内部が直ちに見えない仕掛けがあった。城内は巨大な忍者屋敷のようなものである。東御門の展示場にある駿府城の模型をもう一度見ていただけると、江戸時代の駿府城の様子が理解できる。

6.北門(北御門)

北門草深御門から三ノ丸に入り、三ノ丸から二ノ丸に入る門が北門である。ここは石垣の形が当時の原型を残している。裏側に回って、後ろの石積みを見ていただきたい。急な階段かあり、門に進入しようとする敵を攻撃するための石段や武者走りが一部分昔のまま残されている。この門を通過すると二ノ丸に入るわけである。  
  現在ではこの北門を入ると、左側に平成の時代に造園された紅葉山庭園がある。ぜひ、正面に廻って大名庭園を模した美しい庭園と茶室を鑑賞して頂きたい。紅葉山庭園入口の墨書の看板の文字は、徳川御宗家十八代の德川恒孝氏の揮毫によったものである。

7.御水櫓御門(御水門)と二ノ丸の水路

御水門家康公の夢は、城が海から繋がっていることであった。そのため駿府城には、清水港から小船が巴川や北街道を登って水落まで運行し、そこから城内に入り天守の真下まで到達できる水路が残っている。その痕跡を訪ねるなら、横内御門から三ノ丸に通じる水路を、横内御門跡から歩いて頂きたい。さらに二ノ丸の堀に進むと、二ノ丸の堀には全国的にも珍しい船櫓門がある。駿府城には、清水港まで通じていた水路があったのである。現在では、北街道の水路が暗渠になっているため見えないが、昭和初頭までは道路の真中が川となっている写真が残されている。舟の水路
  三ノ丸から二ノ丸に出入りする水路は二ノ丸堀に通じ、二ノ丸堀から本丸に通じる水路の入口には、船をチェックする船櫓門がある。更に本丸堀の堀に通ずる水路が数年前に発見され、その複雑な鉤(かぎ)の手の構造が現在では手に取るように見られる。水路には外敵が城内に一気に攻め込めないよう、そのための工夫が見られ、現代の私たちには想像もつかない防衛のための手段が意図的に構築された水路であることがわかる。どうしてわざわざ、しかもこんな水路を作ったのか不思議な水路でもある。
  これは400年前に家康公が構築させた珍しい水路として、静岡市が全国に誇る駿府城の観光資源ともなる遺跡である。この水路の横には、平成の紅葉山庭園が公開されている。庭園に至るための橋は、この水路の上に架けられている。橋の手前には、東京銀座町内会から寄贈された「銀座の柳」が植樹されている。それは江戸の銀座が駿府から移転してできたことを互いのご縁とし、銀座名物として知られた「銀座の柳」の二世を逆に静岡市に寄贈していただいたものである。

8.本丸大手門(御玄関前御門)

城の諸施設の中で、一番大切な場所が本丸である。ここには城のシンボルともなる天守閣があり、また城主である家康公の御殿が立ち並んでいた場所である。この最も重要な本丸に入るための門が、本丸大手門であった。この門は三ノ丸大手門と同様に、御三家や大名、それに天皇の勅使など身分の高い人々が出入りした。
 本丸に入るその他の門としては御台所御門があり、ここからも本丸に出入りすることができる。ただし許可を得た商人などが、大奥に呼ばれたときに出入する門であり、門の名前のように、本丸御殿に食料を運び入れる門であったためこう呼ばれたという。現在は埋め立てられているため、肝心な御台所御門を確認することはできない。東御門に展示している模型でもう一度確認していただきたい。
  東御門の内部に展示している駿府城の模型は、静岡市が制作したもので、古記録を基に正確な模型として復元されている。この模型を見ながら本丸や御台所御門の往時を現場で想像していただきたい。この駿府城の模型では、現在では見ることも出来ない御天守台下御門などもある。また寛永12年〔1635〕、駿府城が焼失した後に建築した城郭諸施設が、再現されなかった天守以外は全て古記録や古絵図などによって模型で復元されている。

9.本丸跡・家康公銅像

家康公の銅像駿府城本丸は、天守(五層七重=五重七階とも)と御殿があり、御殿は家康公の公的空間(政務)と私的空間(大奥)に分かていた。使い方によって異なるが、表・中奥・大奥と呼ばれ、区別されていた形跡もある。私たちが日常見掛ける駿府城内の家康公の銅像のある場所の近くには、天守・本丸御殿・紅葉山庭園などがあった。家康公の銅像の横にあるみかんは、家康公御手植えのみかんとも伝えられており、現在静岡県の天然記念物に指定されている。  私たちは家康公の銅像の前に開けた空間を目にすることができるが、この広い空間に家康公時代には、駿府城の御殿があったことも想像すると楽しい。天気が良く、富士山 が見える時期などは、昔の駿府城の雄姿が写真の様に浮かんでくる。静岡市では、本丸を取り囲む石垣や本丸の堀の一部を発掘しそのまま残している。

10.紅葉山庭園

紅葉山庭園 問合せ先 045-251-0016(茶室管理事務所)
9:00~16:30、(休)月曜(祝日の場合は翌日)・年末年始

小堀遠州の作庭による本丸御殿の庭〔紅葉山庭園〕には、「蜜柑・蘇鉄・梅」などの立派な樹木があった。現在の紅葉山庭園は、駿府城本丸御殿に在った紅葉山庭園の名を踏襲したもので、名前だけ引き継いで現在の場所に造られている。このため大御所家康公時代の庭園ではなく、場所も異なっている。ただし現代に蘇った大名庭園として、是非、現在の紅葉山庭園も鑑賞して頂きたい。庭園入口の手前にある柳は、前述した様に駿府城下町の両替町にあった銀座が、慶長17年(1612)に江戸に移ったため、「江戸の銀座は駿府がルーツ」という由来から、東京都銀座町内会から記念に贈られたものである。

11.駿府城の建知石

横内御門のあった近くに正面縦80センチ横140センチの白い御影石がある。石には「松平伊豆守信輝が築いた」と刻んである。また柚木の護国神社には「よつめびし」の家紋とともに、「わかささい相」と大きく彫った石がある。これも大御所時代に、京極若狭守宰相高次が駿府城の定礎に建てたものを、いつの日か護国神社に移したものと伝えられている。駿府城の雄姿を想像できる石でもあり、「わかささい相」の石と比較して頂きたい。

12.東御門と巽櫓

東御門と巽櫓 問合せ先 045-251-0016(茶室管理事務所)
9:00~16:30、(休)月曜(祝日の場合は翌日)・年末年始

東御門と巽櫓東御門と巽櫓の建物は、寛永12年(1635)に焼失した。その後に再建された建物が幕末まであったはずであるが詳しいことは伝わっていない。現在の建物は、寛永期に再建された当時の指図(設計図)により古式にのっとり忠実に建てられた三度目の建物ということになる。従って平成の時代に入って建築されたこれらの建物は、国内でも忠実にして精巧に再建された日本国内の城郭施設として高く評価されている。ぜひ、建物そのものが立派な鑑賞に堪えうるものであることを確認のうえ見学していただきたいものである。
  特に、現在では極めて入手困難な木材を内外から調達し、当時のまま建設したため建築学的にも価値は高い。また東御門と巽櫓の底部の展示物に注目して欲しいものである。建物その物が立派な展示物であるばかりでなく、次の展示物もご覧いただきたい。

主な展示物

駿府城下町の模型
駿府城下町の模型江戸時代に入って、日本で最初に完成した城下町、それが「駿府城下町」である。ここには1/150の模型で、大御所時代の駿府城下町を再現しているためぜひ見学していただきたい。

駿府城の模型
静岡市が作成した駿府城の模型である。本丸には天守がなく、天守台だけとなっているのは、駿府城が寛永12年〔1635〕に焼失し、天守が今日まで再建されていないからである。そのため模型は、寛永12年に焼失した後の城郭建造物となっている。 駿府城は、寛永12年以前の城内の具体的史料に欠けるため、その実態が明らかになっていない。しかしこの模型は、残された寛永期の指図によって忠実に再現されたものである。そのため天守台だけで、天守は再建されていない。

駿府城天守閣模型
駿府城天守閣模型現在の研究成果を生かし、「もし存在していたらこんな天守だったろう」という仮説によって造られたのがこの模型である。特徴は、既に研究で解った「天守丸構造」であり、この形は研究の成果として確認されたものである。天守丸構造とは天守そのものが、一つの郭のなかにあって、その郭の中に天守が建設されていることを意味する構造である。 天守台の上に聳える天守の形は、おそらく「もしあったらこんな形であったであろう」という研究成果の基に、これまでの限られた史料を駆使して再現されている。

家康公の手習の間〔臨済寺の本物の復元〕
家康公の手習いの間(復元)静岡市葵区大岩臨済寺にある、家康公の「手習の間」が復元されている。臨済寺は修行寺のため、拝観が制限されている。ないが、ここに精巧に復元された手習の間で家康公が今川義元の人質時代に臨済寺の雪斎和尚から学問を学んだ往時をご想像いただきたい。全て原寸で復元されており、特に天井の竜の絵は見事ですので見逃さないで欲しい。

発見された鯱
駿府城二ノ丸の東御門前の堀〔静岡大学付属小学校前〕から、発見された鯱昭和44年に重さ500キロの青銅製の見事な鯱が発見された。推定では大御所時代の物と考えられ、駿府城の建造物に飾られたものと思われる。本来は雄と雌が一対であるが、発見されたものは一匹だけである。現在、静岡市の文化財に指定され、東御門に展示されている。  この鯱は東御門に飾られていた鯱と考えられ、現在の東御門にはこの鯱を模した瓦の鯱が屋根を飾っている。

【駿府城下町】家康公ゆかりの駿府城下町古地図を歩く

駿府城下町探検の前にお読み下さい。
ドン・ロドリゴ日本見聞録家康公は慶長14年(1609)頃から、駿府町奉行彦坂九兵衛、畔柳寿学、伴野宗全の三名を奉行とし、大々的な「駿府城下町」を完成させた。これより前の今川時代、駿府の町は武田氏に翻弄され荒れ果てていたが、その駿府を家康公が天正期、東海五ヶ国の領国経営の中心地とし、城も町も新規に造営していた。しかし駿府の町は、地形的には今川時代と変化なく、安倍川の慢性的洪水の恐れがあったので、根本的に作り直す大事業を行った。
  まず安倍川と藁科川の流路が全く別々だったものを一つの流路とし合流させ、これによって広く開けた静岡平野の中心部に新しい町「駿府城下町」を完成させたのである。そこには最早中世戦国時代に今川氏の築いた「中世・今川城下町」とは全く別物で、江戸時代になってはじめて完成することとなる。こうして、日本最初の地方都市「駿府城下町」は、美しく富士山を背景として完成した。
  駿府城下町は、「士農工商」の江戸時代の基本的原理原則を生かした城下町として誕生したため、戦国時代に混在していた武士と百姓の同居はもはやなかった。戦国時代の城下町には、街中にも農地が点在したり、また武士と百姓の区別が曖昧であったことから、農業関係者と武士が混在していたのに対し、駿府城下町は、「武庶別居住区域の原則」が日本で始めて貫かれた城下町として、日本ではじめて誕生した江戸時代の思想による町づくりがなされていた。
  駿府城下町は、商工業者の居住区は碁盤(ごばん)型に美しく造られ、城の周辺には武家屋敷が駿府城を守っていた。城下町の外郭〔周辺〕には、寺社が配置され城と城下の守りの体制が完成していた。通称「駿府九十六ケ町」と呼ばれたこの町は、後に完成していく江戸や名古屋の城下町のモデルになった。江戸時代、日本国内で最初に立派に完成した駿府城下町は、大御所家康公のカリスマ性を帯びた近世の町として全国のモデルとして誕生したのである。  
  駿府型町割は江戸城下にも駿府町割りの原理が応用され、その痕跡を現在の東京に見ることができる。その主な場所が、駿府から移った江戸の「新両替町」〔銀座〕であり、また駿河町である。江戸の銀座は、駿府から江戸に移転した駿府両替町がルーツであり、最初は新両替町と呼んで、二丁目に銀座役所が置かれていた。こうした駿府関係者によって造られた江戸の町には、駿府型町割りが残されていることに注目したい。
  ところが拡大する江戸の町は、いろいろな町づくりがそれぞれ生まれたのも事実である。 駿府は大御所家康公の町であったことから、駿府住民には他国では見られない特権と保護が与えられていた。駿府商人の特権として著名なもの、それは長崎貿易による生糸の特権〔糸割符〕である。こうしたことから、貿易で巨万の富を獲得した豪商茶屋四郎次郎も駿府に屋敷地を構えていたといわれ、家康公への御機嫌伺いのために登城しては、海外貿易で入手した珍しい品々を献上したり、また海外の事情を物語っていたことが『当代記』によって知ることができる。 ところが豪商茶屋四郎次郎の駿府での屋敷地は、大御所時代の古地図に登場しないのが不思議である。

駿府城下町の特徴

家康公によって完成した駿府城下町の特徴、それは大きく分けて次の5つが挙げられる。

  1. 豊臣秀吉が京都の街を囲い込む土塁〔御土居〕(おどい)を構築したのに対し、駿府は開放的な造り。
  2. 京都の土塁〔御土居〕の代わりに、西国の豊臣の侵略を防ぐため安倍川と大井川に橋を造らせず、二つの河川を自然の要害とした。
  3. 秀吉の京都市街には、「十口」を作らせて緊急時の場合に門を閉ざし、防御の一環としたが、駿府城下町は二つの河川のお陰で駿府城下町の東西の出入口に「見附」〔門〕を二箇所設置しただけであった。ところが駿府城下町の武家屋敷地への出入り口には、後の江戸で行われた様な木戸〔勝手に武家屋敷地に出入禁止のため〕がいち早く設けられ、慶安事件以後は、町人地にも同心を配置して監視した。現在の交番のルーツである。
  4. 京都では街中の寺院を鴨川の御土居の西側に集中させていた様に、駿府は安倍川方面に寺町を集中的に配置し西からの防衛線とした。寺は兵隊を駐屯させたり宿泊させる意味があった。

駿府・静岡は、昭和15年〔1940〕の静岡大火と昭和20年の戦災で多大な歴史文化遺産を灰燼と化し、貴重な寺社や商家を失った悲しい歴史がある。特に国宝の宝台院や、小京都を彷彿とさせていた美しい寺町、それに数々の旧家や寺社を失った。浅間神社は爆撃機が西から東に飛来するため、賤機山が衝立の役目を果たし焼失を免れた。臨済寺も同様であった。ところが賤機山の突先にあった、大歳御祖(おおとしみおや)宮神社は楼門を戦災で焼失した。  この様に数多くの文化財を失った。しかし形は変わっても、大御所時代の歴史と伝統を今に伝えている町、それが駿府城下町である。ぜひ、歴史の現場を皆さんの足で巡ってください。

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