大御所・家康公史跡めぐり
薩摩土手 ~斬新(ざんしん)な築堤「薩摩(さつま)土手」~
薩摩土手 | JR静岡駅から安倍線、美和大谷線バス約15分、妙見下下車すぐ |
薩摩土手とは、甲斐の武田信玄が築堤した「信玄堤」の方法を真似たものであった。工法は、強い川の流れに逆らうことなく、幾つもの枝となる堤を造った。その形が、雁(がん)が夜空を飛んでいる形に似ているため「雁行性(がんこうせい)堰堤(えんてい)」と呼ばれた。この築堤方法は、日本が世界に誇る土木技術であったが、明治時代に逆に西洋方式を真似て改造した薩摩土手は、大正3年(1914)の大洪水によって大水害を引き起こす結果となった。
逆に西洋では、日本の方式を真似てフランスなどはアルプスの激流を日本技術が防いだ話が『日本土木技術史』に伝わっていることは皮肉である。江戸時代には、日本は世界に通じる高度な技術を持っていたのである。
薩摩土手について、もう少し詳しく知ろう
薩摩土手の大工事は、慶長11年(1606)ころから家康公は駿府城拡張工事にともない、全国の諸大名を動員し「天下普請」(公共事業)として工事に参加させた。中でも薩摩の島津(しまづ)忠(ただ)恒(つね)は、500石積みの船150艘に石や材木を積んで参加しという。その材料で築かれたのが駿府城の外郭を守る薩摩土手であった。 薩摩土手は井宮妙見神社から堤が築かれ、弥勒の下(与九郎新田)まで築かれた。この堤によって、それまで別々に流れていた安倍川と藁科川が一つの流れとなり、安倍川から3箇所の水口を取り入れて新しく誕生し、駿府城下町には安倍川の綺麗な水を水路によって流した。これらが駿府用水である。井宮水門には、見事な石積みの水路が佐津間土手の下から発見された。薩摩土手の名前は、天保11年(1840)に書かれた『なこりその記』の中に収められている「駿府独(ひとり)案内(あんない)」に登場する。
松留の酒井康治
家康公に従って度々戦場で手柄をたてた人物に、酒井康治がいた。彼は晩年には、郷里の松留に住み、農業の傍ら灌漑技術の名手として諸大名から多くの仕事を請け負っていたという。
安倍川の石合戦の場所はどこか?
家康公が今川氏の人質として駿府にいた頃の話に、有名な安倍川の石合戦がある。東軍と西軍に別れて一組150人程度と、一組300人がそれぞれ対戦した。誰が見ても300人の方が有利だが、竹千代(家康公の幼名)は「少ないほうに加勢しろ」とお供に命じた。
岡崎から一緒に来たお供がその訳を聞くと、「大勢の組は油断する。それに比べて少ない組は必死で戦うから強い」と答えたという。結果は竹千代が言ったように、少人数が勝利した。この話を聞いた臨済寺の雪斎和尚は、「さすが武将の家柄、将来が楽しみだ」と言ったという。
竹千代が駿府に滞在していた当時の安倍川は、現在の安倍川の位置ではなく、中町の天神さんの辺りにも安倍川の流れの一部があったという。このため車町の辺りを「土手通り」と今日でも呼んでいるのは、昔の安倍川の一部が今川時代の駿府城下町に流れ込んでこない様に土手が築かれていたことから、この名前が残されたという。静岡の町は自転車で移動するとことをお薦めしたい。理由は地形の高低が自転車だとよく分かるからだ。
例えば静岡英和女学院入口のバス通りを、長谷通りに向かって進んでいくと、なだらかな傾斜となって下っていくことがわかる。また安西一丁目辺りも、わずかながら高いことが分かる。また現在の安倍川の中にある小さな島〔舟山〕は、今川時代には藁科川上流からの材木をここに集積して舟が作られた場所であったことから「舟山」の地名が伝承されている。