大御所・家康公史跡めぐり
浅間神社
浅間神社 |
葵区宮ヶ崎町102-1、JR静岡駅から安倍線ほかバス約8分、赤鳥居下車すぐ 9:00~16:30 (休)月曜日(祝日の場合は翌日) |
古くから駿河国の総社として、広く信仰を集める神社で、市街地に接する賎機山がシンボル。浅間神社は多くの神様が祀られている神社で、主な神社は神部神社・浅間神社・大歳祖神社で、これらを総称して浅間神社と呼ばれ親しまれている。この神社と家康公の関わりは古く、家康公が今川家の人質時代にはこの神社で元服式が行われた。神社にはその時に使用した腹巻〔静岡県文化財〕が保存されている。
また五カ国の大名となった家康公が、天正14年(1586)9月11日浜松から駿府に移ると、戦乱で荒れ果てていた浅間神社の造営や臨済寺の再興を行った。現在静岡市文化財資料館には、当時の再興に尽くした家康公の朱印状が展示されている。また神社には、当時の伽藍配置の古絵図が残され、本社、拝殿、末社、神宮寺に至る神域の様子を知ることができる。
家康公の遺志を継いだ家光は、莫大な巨費を投入し立派な社殿を寄進したが、安永年間にその伽藍を火災で焼失した。現在の社殿は、安永の火災で焼失したためそれ文化年間以後60年の歳月をかけて再建されたものである。総漆塗りで極彩色の壮大な社殿は、江戸末期を代表する神社建築として全て国の重要文化財に指定されている。
浅間神社廿日会祭
浅間神社廿日会祭は、駿府静岡で四百年の伝統を持つ神事である。由来は大御所家康公が、建穂寺に参拝した折に見物した「稚児舞」に感動し、浅間神社に奉納することになったもの。
摩利支天堂
浅間神社の百段の階段を登る右にある社殿は、家康公の軍神〔摩利支天〕を祀った建物で、神社の建物の中では本殿と同様に美しく立派な建造物である。ここには摩利支天が祀られていたため、江戸時代までは摩利支天堂と呼ばれていた。 ところが明治の廃仏毀釈で、神社内の佛に関係するものは破棄された経緯がある。幸い本尊の摩利支天や仁王像などは、臨済寺その他の寺に移籍され保存されている。摩利支天像は臨済寺に現存するが、これは特別に家康公が大切にしていた摩利支天金印〔5㌢あまり〕という見事なものである。
玄陽院
浅間神社の神宮寺〔神社に付属する寺〕として、境内の中に玄陽院が明治の廃仏毀釈まであった。この寺は浅間の社僧寺で天台宗であった。この寺は家康公の御祈願所として、大御所時代は天海僧上がこの院(寺)に住んでおり、ここから毎日駿府城に通っていたという〔なこりその記〕。浅間神社にはもう1つ惣持院という寺があり、天海僧正は、この寺にも出入りしていた。惣持院には、家康公を祀るための東照宮がある(現東雲神社蔵)。ところが数年前に火災で焼失した。