大御所・家康公史跡めぐり
誓願寺
誓願寺 | 駿河区丸子5807、JR静岡駅から中部国道線バス約30分、二軒家下車徒歩約5分 |
片桐且元と誓願寺
秀吉の死の直前のことである。秀吉は枕元に重臣一同を集め、六歳の息子秀頼が元服するまで面倒を五大老たちが責任を持って見ることを血判し約束させた。
この時豊臣家は、片桐勝元を豊臣側の政務担当とし、秀頼に代わって豊臣家の全権を掌握させた。やがて家康の権力が日と共に名声を博すと、時の天皇御陽成院は家康公を内大臣に任じ、正二位を贈った。
世間では「桐の葉が落ち、葵は栄、松に緑の花が咲く・・」と唄われるほど徳川の威信が増していった。慶長12年(1607)秀頼が15歳となると大坂方は使者を駿府に送り、誓詞の履行政権返上を申し入れた。ところが家康は、「天下は一人の天下ではない、天下の天下であるから甚だしき失態の無い限りこの家康が護って行く・・」、つまり家康は、豊臣家滅亡のための口実をここ駿府で探っていたのである。
家康公は大坂には所司代板倉周防守を置き情報を探らせていた。まず大坂方の軍資金を少なくする策として、以下のことを命じた。
- 紀州那智山の造営
- 京都に天台宗の方広寺を再建
- 方広寺に大仏殿の建設命令
この大仏殿の建立と落慶法要の手続きをめぐって、豊臣と徳川の戦端が一挙に拡大した。つまり方向寺の鐘銘の文字「国家安康」をめぐっての事件である。
釈明のため片桐且元が駿府に下向するが、家康の術中にはまり抜き差しならない状況となり、逆に片桐が徳川に寝返ったという風評が大坂で広まり、淀君と秀頼の立腹を招くこととなった。豊臣は大蔵の局を駿府に下向させ、家康の側室〔阿茶の局〕と交渉した。家康の巧みな豊臣滅亡の仕掛け〔外交戦術〕は、驚きの一語に尽きる熾烈な展開となった。片桐且元は駿府に入ることが許されず、大鈩(おおだたら)の誓願寺に逼塞し家康公の下知を待ったという。
豊臣秀吉を祀る豊国神社は、豊臣家滅亡後に家康は取り壊しを命じた。このため現在の国宝の唐門は、明治13年〔1880〕伏見城の城門を移築したものである。
閑話休題
大御所家康公が豊臣家取り潰しに掛かったのは、秀吉が奈良の東大寺大仏殿を模して建造させた方向寺の大仏殿事件から始まった。つまり秀吉没後に完成した大仏殿の、「落慶入仏開眼法要の儀式」をめぐってである。家康公は儀式のやり方に、一々注文を付けて豊臣家に介入した。
秀吉の造営した大仏殿は、その後の地震で破壊され再建されたももの災厄(さいやく)により姿を消した。残っているものは、豊臣家滅亡の口実となった問題の釣鐘である。この釣鐘そのものも、家康公が再興させた大仏とともに造らせたが、鐘銘に「国家安康君臣豊楽」の文字があり、この文字は家康の名前を分断し、豊臣家の子孫繁栄を望む意味だと難癖を付けた出来事である。家康公と言えども、この事件に限って考えるとやり過ぎの観がする。そんな出来事の最中、豊臣方の家老片桐且元が弁明のため駿府の家康公を訪問した。その折に滞在していた寺、それが大炉の誓願寺である。
家康公の性格を熟知していた片桐且元は、両家の激突を避け、何はともあれ安全策を取ろうとした。ところが豊臣秀頼や淀君は、家康公に懐柔されていると逆心を疑われ寂しく失意の内に大坂城を去った。この実話は、坪内逍遥の名作『桐一葉』に取り上げられた、「桐一葉落ちて天下の秋ぞ知る」であった。
駿府大御所時代には、こんな出来事も駿府城を舞台にあったということを思い出して見て下さい。