大御所・家康公史跡めぐり
原主水(はらもんど)の銅像 キリシタン信徒弾圧事件
原主水の銅像 | JR静岡駅から徒歩約15分、葵区城内町 1-5 聖母幼稚園内 |
外国人シーボルトが指摘したように、東海道は美しく整備され、江戸から京都まで東海道に53の宿場が設置されたのも家康公の時代であった(宿の成立は時代が異なる)。街道を往来する旅人の中にはイギリス人の記録も残され、酷寒の最中に旅人を真冬でも介助しながら川を越える川越人足の苦労や、また駿府で始まったキリシタン大弾圧によって、安倍川の河原に晒(さら)されたキリシタン信徒の処刑場の様子も記されている。
そんな時期に家康公の家臣であった岡本大八は、キリシタン信徒であったことが発覚し、慶長16年(1611)2月23日に安倍川の処刑場で火刑に処せられた。岡本大八の上司であった原主水もキリシタンであったことから、両手の指を切られ、火印を額にあてられ追放となった。
藁科川右岸の葵区牧ヶ谷耕雲寺住職が、原主水をかくまっていたことが露見し住職も同罪として寺は廃寺とされ、原主水は江戸送りとなって鈴が森で処刑された。〔徳川実記〕原主水の銅像は、駿府城内の聖母幼稚園内にある。
駿府とキリシタンに関わる出来事は意外に資料が豊富で、しかも駿府に来た外国人の手記に詳しい。中でも家康公に謁見したスペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノの自著『ビスカイノ金銀島探検報告記』によると、駿府城下町には二箇所の教会があり、家康公の侍女や侍たちの中にも敬謙なキリシタン信者が熱心に信仰していたことが、昨日の出来事の様に伝わってくる。
セバスチャン・ビスカイノが出会った大奥の三人の侍女〔ルシア・ジュリア・クララ〕達は、その後のキリシタン信徒迫害で数奇な運命に翻弄されたことは、キリシタンパードレ〔宣教師〕が具体的に記録していた。〔『ビスカイノ金銀島探検報告記』、『日本キリシタン教会史』参照〕
閑話休題
家康公は書物が好きだった
駿府城内には紅葉山庭園があり、家康公はその場所に「紅葉山御文庫」を造って天下の貴重な書物を収集していた。「家康公がその晩年に駿府の文庫に所蔵していた蔵書は、漢籍800余部をはじめ、古筆の歌書などを併せて、約1千余部、1万余冊にのぼっていたといわれていますが、紅葉山文庫では、初代が収集したこの貴重書を根幹として、歴代将軍の手沢本を保存し、将軍が閲覧するにふさわしい和漢洋の図書を大量に収集しました。
『御文庫始末記』によれば、その蔵書数は、正徳年間(1711~15)には4万余冊、その後、文政2年(1816)には7万5千冊近くに増加し、元治元年(1864)から慶応2年(1866)に編集された『元治増補御書籍目録』には、漢籍約7万4000余点、御家部約2万6900点、国書部約1万2200余点と記され、総計11万3950点に上る厖大な数量であったことがわかります。このうち、幕府の編纂物や記録類など、特殊な集書である御家部を除いて考えると、漢籍は85%、国書は15%の比率となり、漢籍が圧倒的多数を占めていました。江戸時代、将軍の学ぶべき学問は漢学であったことが、この数字から改めて看取できます」〔徳川幕府旧蔵書の流れ -紅葉山文庫1-より〕。
現在、紅葉山文庫旧蔵書は、国立公文書館内閣文庫に数万点、宮内庁書陵部に1万点余保管されているという。徳川将軍家の学問に対する姿勢が、初代家康公から継承したことが理解でき、そうした観点から駿府城を見直してみたいものである。
家康公の出版文化事業
日本最初の活字鋳造は家康公が駿府城にいた当時は、全国でも珍しいほど書物が沢山駿府城内で出版されていた。家康公は林羅山〔道春〕や金地院に命じて、日本最初の銅活字による駿河版として著名な「大蔵一覧」、「群書冶要」も印刷させた。銅活字は、加藤清正が朝鮮から持ち帰った物と、駿府で足りない部分を鋳造させたものが二種類あった。
今も現存する家康公の銅活字
東京の凸版印刷株式会社の印刷博物館に、家康公が駿府城で鋳造させた銅活字が国の重要文化財として保存されている。
今も現存する当時の本
家康公の駿府大御所時代は、全国でも珍しいほど書籍が出版された。家康公は儒者の林羅山、金地院崇伝などの学者を動員し「駿河版」といわれた書籍の出版である。活字で出版物された有名なものが、「大蔵一覧」、「群書治要」で、中には活字が逆さの文字もある。地元静岡市内では、静岡県立中央図書館で「群書治要」を閲覧することができる。これは駿府城内に保存されていたものが、家康公没後の元和5年〔1619〕に、御三家に駿河御譲本として紀州和歌山の頼宣に渡った。それが昭和3年に紀伊徳川家の頼貞侯爵より県立図書館〔当時は県立葵文庫〕に寄贈されたものである。