家康公の生涯
五カ国統治時代
再び駿府へ
今川家を捨て織田信長と結んだ家康は、軍事同盟と姻戚関係を結んで信長との絆を強くした。ところが敵国の武田と築山殿が内通した事件で、家康は多くの試練を味わった。家康には、数々の難問が容赦なく降り注いだ。永禄7年(1564)の2月には、三河の一向一揆が家康を襲い、三河領国を揺さぶった。家康23歳の時である。こうした宗教の苦い経験を持った家康が、晩年にキリシタンをはじめ宗教対策に取り組んだのもこの経験が生かされたものか。
家康は三河軍団を組織し、永禄9年(1566)には松平姓を捨てて「徳川」を名乗った。翌年に嫡子信康は、織田信長の娘徳姫をめとった。元亀元年(1570)家康は、信長と共に浅井長政と朝倉義景連合軍を破った。姉川の合戦である。戦に勝利した家康は、岡崎城を信康に任せて浜松城に移った。家康の当面の敵は武田信玄だ。大井川を渡って堂々と遠江に侵入する武田信玄に対し、織田信長は家康に危険だから岡崎に退くよう勧めた。
勇猛果敢な信玄の行動を、信長は家康より知っていた。ところが家康は、信長の忠告にもかかわらず浜松城に踏み止どまった。この時に起こったのが三方原の合戦であり、家康は生涯で最も惨めな敗北を味わうことになる。信長の予想は的中した。死を覚悟した家康に、家臣たちは主君を死なせるわけにはいかないと、夏目次郎左衛門が家康の身代わりとなって、無理やり家康の乗った馬を浜松城に向けて蹴飛ばしたという。馬は家康を乗せて無事浜松城に向かったが、身代わりの夏目次郎左衛門は討ち取られた。
三方原の合戦後の敗北で家康は多くを学んだ。「勝つことばかり知って、負けることを知らないのは身の破滅である」ことを。家康の宿敵武田信玄は、天正元年(1573)伊那の駒場で倒れた。信玄53歳である。家康は32歳だった。敵とは言え立派な武将を亡くしたことで家康は、武田信玄の死を惜しみ追悼したほどである。
信玄の後を継いだ勝頼は、家康の属城遠州の高天神城を奪った。その代わりに家康は、東三河の長篠城を攻略した。歴史上有名な「長篠の戦」は、徳川・織田の連合軍が三千挺の鉄砲を用意し武田の騎馬軍団を殲滅(せんめつ)したことで知られた。鉄砲の威力をこの戦いが立証し、戦術はその後一変した。
その後遠州や駿河に入った家康は、武田支配の駿河にも侵入し駿府を無抵抗のまま占領した。織田信長の協力がなかったら、おそらく家康は武田勝頼との抗争すら戦い抜くことも不可能だったであろう。こうした強力な織田信長との軍事同盟があったから、織田信長の命令で天正7年(1579)8月29日、武田と内通していたといわれた正妻築山殿を遠江の高塚で殺害し、同年9月15日に息子信康を切腹自害させなければならなかったわけである。家康38歳のときであった。
家康は信康をことのほか愛していたため、信康の雄姿を胸に抱いて戦場で戦った逸話は事実である。この事件から21年後の慶長5年9月15日、関ヶ原の合戦が起こったが、この日は信康の命日と意識して敵陣にむかった。
徳川家康の主な戦歴
永禄 3年(1560)5月 | 今川義元の先鉾隊として初陣(19) |
永禄 6年(1563)秋 | 三河一向一揆と戦う(23) |
永禄12年(1569)1月 | 今川氏真を掛川に攻める(28) |
元亀 元年(1570)6月 | 織田信長と浅井・朝倉を破る(29) |
元亀 3年(1572)12月 | 三方原の戦いで武田信玄に大敗(31) |
天正 3年(1575)5月 | 長篠の戦いで武田勝頼を撃破(34) |
天正 9年(1581)3月 | 高天神城を落とし遠江を平定(40) |
天正10年(1582)2月 | 武田を駿河から一掃(41) |
天正11年(1583)4月 | 賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破る(42) |
天正12年(1584)3月 | 小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と戦う(43) |
天正18年(1590)4月 | 北条氏を小田原に攻める(49) |
慶長 5年(1600)9月15日 | 関ヶ原の戦い(59) |
慶長19年(1614)11月 | 大坂冬の陣(73) |
元和 元年(1615)5月 | 大坂夏の陣(74) |
浜松城から駿府城へ
天正10年(1582)織田信長が没した。本能寺の変である。この後の家康の運命も変わった。家康と秀吉との間で、天下取りの合戦が水面下で始まっていた。家康は秀吉から離れるように、浜松城から駿府に移った。天正14年(1586)12月4日である。家康は45歳であった。家康が駿府に移ったのは、石川数正が家康を裏切ったため浜松城内の手の内を読まれてしまう恐れがあり、新たな戦略上からも駿府に移ったという説がある。また家康が東海五カ国の大名となったため、新しく領国の拠点を駿府としたとする説もある。
静岡市葵区羽鳥の旧家に伝わる古文書によると、家康が浜松から駿府に来る時に藁科の飯間の野田沢(のたんたざー)から駿府に入ったという記録がある。家康は駿府に来ると、ここに城を構築し、海道一の武将として大きく一歩前進した。駿府に移る前に秀吉と和解した家康は、秀吉の・異母妹(いもうと)、旭姫を妻として迎えざるを得なかった。政略婚姻による両者の和睦だ。家康は不承不承旭姫を受入れたが、二人の関係は良くなく結果的には別居結婚となった。家康45歳、旭姫44歳である。
家康は駿府時代に独自の領国経営の手腕を発揮した。領国支配の法令「七カ条」を制定し、農業政策や五カ国総検地の実施、領国の宿駅(交通機関)の一部整備もこの時代に行った。特に税金や夫役(軍事力)の取り決めを明確にし、土地の所有関係を明らかにしたのは民生の安定と軍事体制の強化を狙ったものである。この考え方は、後の士農工商の基本的考え方にも通ずるものであり、中世の中にすでに近世社会を萌芽させていたことになる。
このほかにも領内の石工・鋳工・木工・陶工ら職人の保護と、工業や製造業の育成や商品流通を盛んにし、町人の保護育成に力を入れ城下に定住させた。士農工商の先駆けでもある。家康時代の駿府城下町は、中世の城下集落から近世の城下町への過渡期としても注目される。
家康の領国五カ国とは、「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃」であり駿府を支配の拠点とした。ところが天正18年(1590)、秀吉の命令で小田原の北条氏を攻めることになり、この戦いに勝った家康は五カ国と交換に関東に国替となった。家康は出来たばかりの駿府城や天守にゆっくり入ることもなく、駿府での五カ国統治時代は四年間余りで終わった。
天正時代の駿府城
天正期の五カ国統治時代にも家康は、ここ駿府に駿府城を築城した。工事は天正15年(1587)家康が45歳のときに始まった。奉行は松平家忠で、「家忠日記」によると、「天正度御在城、御座所となりしは、天正十四年より同十八年までなりき、家忠日記追加にいう。第十、天正十三年乙酉七月十九日、大神君駿府の城に来臨あり、閏八月十四日駿府の城経営に依って大神君の命を奉りて松平主殿助家忠駿府に至る。同十四年丙戌九月十一日大神君浜松の城より駿府の城に移りたまう。諸士群参してこれを祝し奉る。松平主殿助家忠太刀一腰ならびに樽肴を献ず云々。今日吉日たるに依って仮に駿府城に移りたまいて浜松に還御あり」〔「家忠日記」〕とある。
家康はこの時、浅間神社の造営や臨済寺の再興も行い多忙であった。「家忠日記」によると、「十二月四日、大神君浜松城より駿府の城に移りたまう。御家人等月迫りたるの間、家を駿府に移す者少し」と記され、今川義元が敗北すると、今川時代の駿府城下町は荒廃した。その後に駿府城下町に入った武田信玄も、部分的には整備をしたが本格的なものではなかったようだ。まだまだ未整備の駿府に移って来た家康であったが、家臣たちが駿府に移ってこようとするものが少なかったこともこの記録は記している。
「藩翰譜」(第七)には、「大久保譜にいう、天正十四年十二月四日駿河の国府へ御館移さる。俄の事にてはあり、年も暮んとす。家移す御家人一人もなし。忠隣(大久保相模守)計(ばかり)ぞうつる。徳川殿も悦びたまい、人々もみな感じあえり」とあって、武田・今川の戦闘に加えて、徳川と武田の戦乱でも駿府はかなり荒れ果てていた。そんな駿府に、家康が領国の首都をあえて建設しなければならない理由は何だったのであろう。
この理由の一つには天正13年(1585)8月、家康に従って数々の功績を残した家臣石川数正の出奔が尾を引いていたようである。