家康公の生涯
関ケ原の合戦まで
合戦の序章
日本史の運命を決した関ヶ原の戦は、東西両軍の心理作戦から始まった。そもそもの発端は、豊臣秀吉の死去によってもたらされた内輪もめである。秀吉は息子秀頼の将来を家康らに頼んで死んだ。秀吉の死は、朝鮮に知られることを恐れ内密に処理されたが、豊臣家の舵取りは五大老と五奉行に委ねられた。
五大老とは豊臣政権の最高機関で、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝(はじめ小早川隆景)・宇喜多秀家である。一方五奉行は、豊臣政権の政務を担当した浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以らであった。
中でも実力が抜きん出ていたのは前田利家と徳川家康であったため、結果的には二人の独壇場とならざるを得ない。
五大老は五大老で、五奉行たちは五奉行で、秀吉の葬儀の準備もそこそこに自らの軍備充実に動き出した。つくられた法度(法律)も甲斐なく、世の中は混乱の兆しが増幅していくだけである。果たして誰が豊臣の後を継ぐ人物か。石田三成は家康を特に警戒した。しかし徳川側もまた豊臣側も、お互い閨閥(けいばつ)で結ばれた蜘蛛の巣の有様の中でお互い疑心暗鬼とならざるを得ない。
ところが前田利家の死後、石田三成が増長していることに不快感を示した加藤清正らは、石田三成から離反し徳川家康に近づいた。すると逆に三成が危険にさらされることになる。三成は奉行から外れ、佐和山城に退きそこに落ち着いた。
そこで頭角を表したのが家康である。諸大名は東西のどちらかの陣営に属し、それぞれ誓詞を差し出して結束を誓うことになる。慶長4年(1599)11月付けの細川忠興の誓詞には、「内府様・中納言様(中略)、二心なきこと」と記されたものもあった。中納言とは徳川秀忠のことであり、忠興は秀忠にも忠誠を尽くすことを誓詞で誓った。そんな細川を恨んだ三成は、キリシタン信者のガラシヤ夫人を人質にするよう計画した。ところがガラシヤ夫人は、夫に迷惑をかけるとして慶長5年7月17日壮絶な死を遂げた。
大方の仲間を獲得した家康は、豊臣秀吉のシンボルともいえる伏見城を自分の居城のように利用し、天下人のように振る舞い始めた。さらに大軍を大坂城に派遣し、そこに兵士を駐屯させたから納まらないのは三成である。家康は伏見の次は大坂城へと、大胆に動き始めた。こうなると今度は大坂城の淀君が納まらない。淀君は側近片桐且元を責め続けるが、何ら手応えがない。そんな家康を見て、石田三成は家康打倒を諸大名に呼びかけた。
家康はそれどころか大坂城西の丸に、大坂城本丸と同じ天守を造営しそこに居座る作戦に出た。大坂城内には本丸天守と、西の丸にも天守が並ぶという不思議なことが起こった。そこで慶長5年(1600)正月には、豊臣の大名たちは大坂城に登城し年賀の挨拶を行うことが恒例であったが、どちらを先に拝謁すべきか迷った。家康は家康で西の丸で諸大名を謁見し、秀頼(当時八歳)は秀頼で本丸で淀とともに大名を謁見した。
大坂城内には天守が二つあり、さながら城主が二名出現したことになる。こうした状況に激怒した石田三成が立ち上がったのも当然で、彼は正義の戦いを挑むことになる。これが関ヶ原の前触れであった。
双方は何食わぬ顔で戦時体制を固めていった。家康の行動に会津を根城にする上杉景勝は、三成の西軍に呼応して抵抗の姿勢を示した。家康はすぐさま会津征伐の指揮を秀忠に命じ、秀忠と異母兄弟の結城秀康も会津征伐の作戦に参加させた。一方の石田三成は毛利を味方に画策し、家康が会津に攻め込んだところで挙兵し一挙に江戸を東西から挟み打ちする計画を大谷吉継に持ち掛けた。
彼は冷静に見てこの戦いは「家康の術中にはまるようなもの、会津征伐は家康の罠(わな)な」として三成に注意した。家康は家康で本多正純に西国諸大名の動きを逐一監視させ、西国並びに豊臣秀頼らの実態を報告させている。こうして東軍の体制も徐々に固まっていった。
三成は毛利の安国寺恵瓊(えけい)に毛利対策を命じると、安国寺恵瓊は勝ち目があるならば毛利輝元を総大将として、毛利を中心に西国の諸大名をまとめることが勝利への道と諭した。三成も同意し、毛利輝元も大坂に来て軍議に参加した。まず毛利は家康弾劾状を作成し、諸大名にこれを配布して大坂方への味方を募った。弾劾状の中身は、家康が勝手に伏見城を占拠したことや、大坂城内の西の丸に天守を勝手に築いたことなどであった。
家康弾劾に呼応する大名たちは大坂城に参集し、檄(げき)を挙げ伏見城攻撃を以て開戦の・狼煙(のろし)とした。これを知った家康は、会津征伐を東北の大名とともに画策し奇襲作戦に出た。東西相まみれての大名獲得工作は更にエスカレートし、家康は東北勢の去就に注目した。そのためには佐竹に会津攻めを命じ、その他の東北勢は家康に呼応して徳川になびく方策を取る一方、強敵であった伊達政宗の行動を封じた。
西軍の動きが激化すると、家康は会津征伐は息子秀忠に任せ、家康の本隊は西に向かって大軍を動かした。こうした折りに秀忠自身も、伊達政宗・浅野幸長・真田信幸らの豊臣系の大名を懐柔させるため同心するよう書状を送っていた。こんなところを見ると、秀忠も単純なお坊っちゃんでもなかったことがわかる。ところが上田城の真田昌幸と幸村は、家康と決別し西軍に加勢し徳川の大敵となり、後の大坂冬の陣でも徳川軍を悩ますこととなる。
関ヶ原の戦いの前夜は、例え親兄弟でも離反し、またある者は同盟した。関ヶ原の準備は着々と整っていった。徳川家康の心配の種は、毛利の行動と福島正則の去就である。毛利も完全に豊臣陣営と一枚岩でないことを知っていた家康は、毛利が徳川になびけばこの戦いは勝てると確信し、毛利には領地加増で優遇することを密かに文書で伝えていたという。
関ヶ原合戦へのプロセスは、最後の最後まで誰がどこで裏切るかわからない複雑な迷路のようであった。お互い疑心暗鬼の中で両軍は、大垣城から関ヶ原へと大軍を動かした。情勢は未だ依然として定まらない中での行動である。ある時は一歩も動かない西軍に家康はじれ、またある時は家康の行動に頭を抱えた西軍も、家康の心理が読めない時もあった。両者の心理作戦の中で関ヶ原の合戦は始まったのである。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦いが始まった。わずか六時間で勝敗が決まった。家康最大の勝因は、西軍の小早川秀秋の裏切りと毛利の不参である。毛利が姿を表さない意味は、家康はすでにわかっていた。
関ヶ原の合戦は、家康と三成だけの戦いだけではない。その影には同じく兄弟で敵味方に分かれていた三人の姉妹がいた。それは淀君とお江、お初の三人姉妹で、三人の母は織田信長の妹で美人の誉れ高いお市の方である。秀吉の命によって京極高次に嫁いだお初は、高次が亡くなると仏門に入って常高院と号し、大坂冬夏の陣では大御所家康の講和交渉に臨み、姉の淀君に降伏するように諭したのも彼女である。
お江は秀吉の命で家康の息子秀忠に嫁いだ。典型的な政略結婚である。結婚当時の秀忠は17歳で、お江は六歳年上の23歳であった。しかも二度の結婚歴があり、とかく嫉妬深い女性で夫を尻に敷くタイプと言われた。それはともかく、血を分けた姉妹同士での戦でもあった。
このときにはまだ徳川家の歴史には登場しないが、徳川家光の乳母となるお福(後の春日局)も戦乱に紛れて苦労していた一人であった。
三成の辞世は「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく わが身なりけり」であった。
関ヶ原の合戦の後遺症は続いた。徳川家は、家康から秀忠へ、秀忠から家光へと徳川三代にしてようやく落ち着いたといえる。その間には徳川家康が将軍職を降り、駿府で大御所として采配を振るっていた時に大坂冬夏の陣が起こった。二代将軍となった秀忠は、家康以上に大名統制を強硬に実施し、また大坂城を徳川家の城として大改修を行った。
三代将軍家光は、家康の制定した武家諸法度の手直しによって大名統制を強化し参勤交代や大名の人質政策などによって幕藩体制を完成させた。