まだある、家康公の魅力
家康公が成功したのは「情報戦」 - 世界に通じる諜報機関を育てた家康公
家康公が情報の大切さを実感したのは、例の伊賀越えで伊賀忍法に接したときだったという。この時の経験から、家康公は藤堂高虎を情報収集役の責任者とし、以後着々と情報収集システムを構築していった。伊賀上野城は、藤堂高虎の築いた見事な石垣が聳えている。伊賀上野城は慶長16年(1611)、大坂の陣の備えとして築城した。もちろん設計者は城造りの名人藤堂高虎本人である。藤堂高虎は、「津は平城なり。当座の休息所までと思うべし。」との家康からの秘命を受け、筒井の故城を拡張して大改修に着手した。
築城の名手と評されていた高虎は、自ら縄張りを指図、目前に迫る豊臣氏討伐戦に備え、筒井の古城を拡張大改修に着手し、地形を上手に利用して濠を深くし、30mの高石垣で囲む五層の大天守は当時の常識を破った築き方という。
また城下町を南へ移して、完全に武装した軍備の町を建設している。外様でありながら譜代大名格〔別格譜代〕として家康に重用された。特に慶長19年〔1614〕の大坂冬の陣では徳川方に参加し、翌年の夏の陣でも功績を残した。高虎は伏見に住んだ家康のもとへ、大坂の情報を頻繁に送っていた。つまり家康の関ヶ原合戦へ向けての準備を、この高虎が情報収集し家康はこれを参考に着々と戦闘準備の体制を進めていたのである。
家康は一方では、忍者集団の育成によって大坂側への睨みを利かせていた。そうした中で活躍した忍者集団の長とも言える服部半蔵について、『アメリカ人の見た徳川家康』(マイケル・アームストロング著)は、服部半蔵はCIA長官と呼んでいる。つまり家康公の周辺は、服部半蔵を頂点に傭兵忍者軍団が結集していた。しかもアメリカ合衆国が出来る前に、家康公は世界最強の情報収集力を育成し、大坂側への睨みを伊賀流の忍者を使って成果を得ていたというものである。
そうした歴史もあってか、伊賀上野には忍者博物館が誕生した。堅城として知られる伊賀上野城は、石垣の高さ30m余り本丸西側の高石垣を見ると、築城の名手藤堂高虎の意気込みが感じられる。