まだある、家康公の魅力
家康は情報操作の天才
世界の歴史家の多くが、日本の戦国時代に特別の関心を深めていた。100年以上続いた戦国乱世の中で、武士たちが独特の文化を創造した茶の湯・立花・香道・書院建築など次々とこの時代に武家文化を造り上げたのであった。そうした中で日本を統一し、天下人となった家康公は、ヨーロッパ中世の三大発明〔火薬・羅針盤・印刷技術〕を駿府大御所時代にクリヤーした。家康公がアダムズによって造船させた日本最初の洋式帆船〔伊東の海岸で造船、伊東の安針祭はここから始まる〕は、大御所時代に太平洋を横断し、メキシコの西海岸にあるアカプルコまでの航海に成功したのも周到な準備と情報収集のためだった。
太平洋横断という家康公の快挙の裏には、京都の豪商田中勝介が家康公の秘命を得てメキシコ〔当時はノビスパンと呼んでいた〕の事情探索が目的であった。同船していた22名の乗組員〔水夫〕の目的は、航海技術を習得することである。こうして22名の水夫は、スペイン人から大船を操る船舶の操縦訓練とその技術習得が目的である。田中勝介はスペインの領土となっていた、メキシコの実情の調査が目的である。
それ以前の関が原合戦の前にも、家康公は秀吉のキリシタン弾圧で地下に潜伏していたスペイン人宣教師〔ヘロニモ・デ・ススース〕と出会ってヨーロッパの最先端情報をいかにして入手したら良いものか、アダムズ来日以前も情報収集活動は続けられていたのである。
その次がリーフデ号で遭難して来日した、ウイリアム・アダムズとの出会いであった。アダムズとの出会いは、家康公の国際的視野の拡大に大きく貢献している。アダムズからは地理学・天文学・数学・幾何学を学び、貪欲にヨーロッパ情報を入手していた。家康公は情報の重要性をかなり意識していた。当時は情報を「表裏」とも呼んで、敵の裏と表を明らかにする意味であった。
家康公の天下取りは、勿論、武器によって勝ち取った天下でもあったが、この裏には情報を的確に捕らえて勝ち取った天下でもあった訳だ。家康公から学ぶことは、戦いは情報戦で決まるというものである。そんな家康公を論じたマイケルは、「情報通になりたかったら、是非、家康公の眠る久能山東照宮に行って、家康公のお墓にお参りすべきだ」と述べている。