家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて
清水区
- 草薙神社
- 大御所家康公と清水港
- 三保に現れたガレオン船
- 清水御殿(下清水御殿)
- 貝島(かいじま)御殿と富士見櫓(やぐら)
- 三ツ山御船蔵と清水御殿の役割
- 折戸(おりど)の献上茄子(なす)
- 岡の茄子(なす)
- 御関船蔵
- 三保の鯨(くじら)
- 江尻城(えじりじょう)
- 巴川(ともえがわ)の河童(かっぱ)
- 江浄寺(こうじょうじ)
- 清見寺(せいけんじ)
- 清見寺の臥竜梅(がりゅうばい)
- 朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)と清見寺
- 庵原村吉原善原寺(いはらむらよしはらぜんげんじ)の矢筒(やづつ)の功能
- 三ツ石、八ッ石
- 海長寺(かいちょうじ)の椿(つばき)の御朱印(ごしゅいん)
- 権現井戸(嶺温泉(みねおんせん)の起源)
- 土屋忠直と家康公
草薙神社
清水区の草薙神社の道筋には、大御所時代に「御茶小屋」と呼ばれる小屋があった。近くには「釜の段」の地名も残っているという。ここは将軍が上洛の折に立ち寄り、御茶を献上したともいう。また松並木もあったという(「駿国雑志」)。
大御所家康公と清水港
慶長12年(1607)家康公の駿府大御所時代の清水港は、駿府の外港として発展していた。当時の港は上町・本町・美濃輪町の一帯で、巴川の河口を利用した港であった。この辺りを清水町と呼んだことから、江尻港から清水港へと呼ばれた。大御所家康公は権威を背景とし、駿府城天守の真下から清水港まで船で結ばれる計画を実現させた。
これは現在の北街道の道路の真ん中には水路(現在は暗渠)があり、上土で巴川と合流し清水港に通じていた駿府城からの水路である。また清水港は徳川の軍港でもあったが、家康公没後は江戸の霊厳島とその周辺に移り向井将監が支配した。その後の鎖国によって徳川水軍は廃止された。
慶長12年(1607)清水区村松の三つ山の地には、御船蔵(おふねぐら)を建て関船を停泊させていたという。その後に御船蔵は村松から片浜(現千歳町付近)に移され、清水港で造船された長永丸や大広丸などの軍船が停泊していたという(「清水湊旧記」)。
清水港にも外国船が入港し、その美しい姿を海上に浮かべていた記録を朝鮮通信使が書き残している。どうしたことか日本の記録にはこの事が一切見当たらず、三保へ南蛮船が現われたことは「駿府記」にも記されていない。
三保に現われたガレオン船
慶長12年(1607)の駿府大御所時代の家康公は、豊臣秀吉が無益な戦争で朝鮮国に多大な迷惑を掛けたことをお詫びするため朝鮮国からの使節を丁重に日本にお迎えした。これが江戸期の朝鮮通信使の始まりであり、使節一行は清水区興津の清見寺を宿舎として歓迎された。この時の朝鮮側の記録が「海槎録」である。
それによると「何とも巧妙で美しい船」と絶賛し、朝鮮使節たちも夢中で幕府の仕立てた御座船で見物したという。平成17年に開館した九州国立博物館が購入した南蛮屏風絵図には、三保・清見寺・駿河湾が見事に描かれ、その中に巨大な南蛮船が停泊している構図となっている。
これこそ、ポルトガルが世界に誇るガレオン船である。ガレオン船とは16世紀の日欧通行船で、極めて大型船で重装備を備え数100トンから1,000トン程度の船である。その後、敵対していたオランダ船から巨大なるが故に回転が悪く度々攻撃されていた。そこで慶長13年(1608)以降は小型で快速性に富んだガレウタ船に改造されていくのである。
清水御殿(下清水御殿とも)
慶長12年(1607)に家康公は、下清水村(現、岡町)に清水御殿を造営し、同14年(1609)竣工し同年9月27日に訪れている(「駿清遺事」)。この建物は「御浜御殿・清水御殿・下清水御殿・烈祖殿(れつそでん)」などの呼び名があった。御殿は時の駿府城主徳川頼宣(駿遠55万石領主)が、父家康公のために建てた別荘である。
嘉永7年(1854)の碑文(ひぶん)には、往時を偲ぶ文言で刻まれた碑が八幡神社境内に建っている。ここには「殿上の間、松の間、柳の間等」の見事な部屋があったという。また建物の彫刻が見事であり、御殿の東側には蓮池があり、また北側には毘沙門さまを祀る毘沙門池があった(「岡地区のあゆみ」)。その頃の岡町は、渚が近くまで押し寄せて、岡清水に打ち寄せる波はどこまでも白く、どこよりも美しかったという。家康公は江戸の白拍子を呼び寄せ、ここで能に興じたり貝島(かいじま)御殿(三保貝島)までの舟遊びを楽しんだという。
貝島御殿は三保半島の内海に延びた半島で貝島と呼ばれた場所にあり、ここには富士山を眺めるための富士見櫓もあって、いずれも家康公のために建てられたものばかりである。家康公は清水港に2箇所の別荘を持ち、御座船(ござふね)に乗って折戸湾や三保の松原から清見寺の遊覧を楽しんだ。ところが慶長16年(1611)4月6日、付近からの火災で浜御殿は焼失した。「駿国雑志」によると、「神祖御機嫌斜ならずして、渡御あり」とあることから、殊のほか三保遊覧を楽しんだのであろう。家康公が他界すると、多くの御殿も取り壊され、1部が静岡市葵区沓谷蓮永寺に移築された。ところが、これも火災で焼失した。清水区岡町の浜御殿跡には、小字名として「字御殿地・字舞台・字蓮池」などの地名がある。
こうした折に家康公は、三保の折戸の茄子を賞味し、また鷹狩りを兼ねて富士山の美しい姿を楽しんだ。このことから「一富士 二鷹 三茄子」の言葉が残ったという(「折戸の献上なす」参照)。また三保の神燈(燈籠)は、海上航海の目標にされ駿河五光に数えられていた。
駿河五光とは、
- 御山御来光(ごらいこう)(富士山のご来光を拝むこと)
- 身延山の仏光(身延のお山からの仏のご光背)
- 由比の漁火(いさりび)(由比漁民の漁火)
- 三保の神燈(三保を行き交う船舶の灯台=神様の灯籠)
- 久能の松明(久能のお山に輝くお灯明)
貝島(かいじま)御殿と富士見櫓(やぐら)
三保の貝島御殿は、ことのほか富士山の雄大さを楽しめる最高の場所にあった。家康公は慶長15年(1610)ここに御殿を完成させた。別名浜御殿または富士見御殿とも呼ばれていた。近くには三保の松原があり、佐賀の虹の松原・福井の気比の松原とともに、「日本三大松原」の1つとして、古来より抜群の風光明媚な場所として親しまれていただけに、家康公はこの御殿と清水御殿を関船や御座船にゆられて楽しんでいた。
ところがその背後には、ここに御殿を建てることによって駿河湾を往来する船舶への無言の圧力を意味し、近くの徳川水軍の士気の高揚を計る目的があった。徳川水軍の中心人物が向井正綱(まさつな)で、向井正綱のお墓は興津の清見寺にある。水軍は当時海賊衆とも呼ばれ、海流を測り船を操り、船から鉄砲を放つ海軍としての専門家集団であり海の戦力であった。
三ツ山御船蔵と清水御殿の役割
家康公は慶長12年(1607)、清水区村松に三ツ山船蔵を建て関船(せきぶね)(関所の船の意味)を係留させていた。この頃の清水港は、経済的にも軍事的にも重要な拠点であったため、東西物資の往来が賑やかで、往来する船舶と物資の輸送を監視する目的があった。
徳川水軍は秀吉が小田原に北条氏を攻めたとき、兵糧(ひょうろう)20万石を西国からの大船数十艘によって清水港に貯え、清水港は実戦に備えた徳川海軍の本陣であった(「清水市史」)。関船とは遊覧船ではなく、自衛艦隊ともいえる堅固な軍船で構成されていた。家康公の子供頼宣(駿府城主)になると、父家康公のため慶長14年(1609)清水御殿を建造し遊覧用の御座船も用意した海辺の別荘を建設してプレゼントしたのである。
頼宣は三保半島の貝島にも別荘を造り、これは慶長15年(1610)の春に完成した(同書)。清水の海運業者は、江戸と大坂の間にあって諸国間の荷物運送に携わりながら回船の取締りも任されたため、「駿河小早(するがこばや)」の称号を与えられていた(同書)。清水港は天領の御用港であり、駿府城を守る外港として、また関東や畿内と富士川経由の甲州信濃を結ぶ扇の要の役割を持っていた。このため、特別に海防・久能山警護・駿府城への御用の荷物の運搬も頻繁に請負っていた。駿府特権の牛車は、清水港から駿府城下町への輸送を担当していたのである。
折戸(おりど)の献上茄子(なす)
気候温暖な三保の松原は、駿府界隈(かいわい)でも特別暖かい。その折戸では、大御所徳川家康公に献上したという茄子(なす)が現在でも世間にあまり知られないまま育てられていことが最近わかりニュースとなった。このナスは丸く、直径6センチあまりのテニスボール大で特別美味という。ところが一本の苗木からの収穫は少なく、通常の茄子の半分位しか採れないという。静岡市はこの苗を広く栽培し、本市の「ご当地茄子」として消費拡大を目指している。
これも歴史の影に埋もれていた、知られざる大発見であった。この茄子の研究者としては、三保にお住まいの地元の郷土史家遠藤さんが深くこの茄子の歴史的研究をされていたことが大きなきっかけとなって世間に知られる結果となったものである。
家康公の有名な言葉に、「一富士 二鷹 三茄子」がある。崇高な富士山の気高さを愛した家康公は、鷹のように強い鳥を武士のシンボルとし、暖かい三保産の折戸茄子を殊のほか大好物としていたという。その茄子が「折戸の献上茄子」であったという。「清水の史話と伝説」によると、初茄子は高価で美味しかったため、折戸茄子を詠んだ次の様な歌がある。
孝行をなすはするがの富士の根に その名も高き三保の松原(江戸時代の鳩谷三志)
地元の郷土史家遠藤まゆみさんのお話によると、紀州にも有名な茄子の話があるが、この茄子は折戸から伝わったものかもしれないという。理由はまゆみさんのお話によると、「徳川頼宣公が、大御所家康公のために清水浜御殿を建造した経緯があることから、家康公好みの折戸茄子が、その後に紀州に国替えとなり御三家の一つとなった頼宣公が、この苗を紀州に持ち帰って伝えた可能性も考えられるのでは」と推測されておられた。
実際によく似た茄子で、京野菜「賀茂茄子」が有名である。これは江戸時代に紀州から京都御所に献上されたものが、やがて水に恵まれた京都・上賀茂を産地として広まったと言われている。とすると、「賀茂茄子」のルーツは家康公好みの折戸で、折戸茄子が紀州から京都・上賀茂に伝わっていたということになる可能性も出てくる。話題としては是非記憶に残しておくのも楽しい。駿府・静岡の研究課題でもある。
岡の茄子(なす)
慶長5年(1600)以後、下清水村が徳川の所領となってから「家康公と茄子」の話が岡地区にも残されているという。それは家康公が大御所として駿府城に在城していたとき、「駿河の国で珍しい物があれば献上せよ」と下知があった。そこで下清水村では、地内で産出されている茄子を献上したところ、家康公は大変悦びご褒美(ほうび)として米10俵を村にくれたという。
以後この村では、家康公が亡くなる元和2年(1616)まで茄子を献上し続けたという。当地は気候温暖のため、野菜の栽培のほかに甘藷(かんしょ)、藍(あい)、綿花(めんか)などもご当地栽培として知られていた。グリーンハウス(温室)がなかった時代、この地域は温暖で温室の役割をしていたことになる(「岡地区のあゆみ」)。
御関船蔵
慶長12年(1607)、家康公は有度郡村松に御席船蔵(別名清水三ツ山御船蔵)と御船手屋敷を建てた。つまり徳川海軍の基地でもあり、藤堂高虎の浜屋敷もあったという。係留されていた船の数は、「なこりその記」によると90船ばかりあり、装備もかなり充実していたことがわかる(同書)。これらの施設のあった場所には諸説あるという。
三保の鯨(くじら)
駿府大御所時代の慶長16年(1611)5月、久能浜に長さ11間余りのよたった鯨が漂いながら流れ着いたという。それから3年後の慶長19年(1614)4月、今度は13間余りの鯨が家康公の別荘のある三保の貝島御殿の近くの海岸に漂いながら流れ着いた。
最初の鯨は駿府の富田屋某氏と富川屋三吉らが入札し、金29両1分7匁(もんめ)で落札した。鯨の油はとても貴重で、50樽余りも採れたという。
江尻城(えじりじょう)
戦国時代に武田信玄が駿河の今川氏を滅亡させると、清水の巴川の江尻に城を築城した。江尻城である。城主は武田信光、山県昌景、穴山梅雪と変遷した。天正10年(1582)2月、今度は家康公が浜松城を出発し、武田領を次々に落としいれた。藤枝の田中城を落し、続いて穴山梅雪が守る江尻城を開城させると、難攻不落の久能山城も闘わずして降伏した。
穴山梅雪の守る江尻城には、織田信長の安土城天守閣よりも早く建てられていたという天守閣があったという。観国楼である。ところが具体的な文献に乏しく、未だ学説として定説になっていない。
有ったとしたら、家康公が江尻城を攻めたときに見ていたはずである。唯一の資料としてこの事が、清水区の秋葉山に現存していたがその資料を戦災で失ってしまった(清水国際高校前田教諭談)。
巴川(ともえがわ)の河童(かっぱ)
庵原郡江尻駅(宿)に巴川がある。伝承によると慶長16年(1611)9月、家康公の命令でここに橋が架けられた。渡り初(ぞ)めでは、地区の一番年老いた夫婦が先頭を歩いていた。するとその時、巴川より奇児(きじ)が突然現れて橋の上を駿府の方角にすたすたと歩き去ったという。このためこの橋を稚児橋(ちごばし)というようになった。それは稚児の格好をした巴川の河童の仕業ということから、別名この橋を河童橋と呼んでいる(「駿国雑志」)。
江浄寺(こうじょうじ)
室町時代の永正9年(1512)、鎌倉光明寺第9世観誉祐崇上人が京都に上がる途次、勝沢の地に江浄寺として創建したのがこの寺の起源という。後に徳川家康公が江戸幕府を開き、東海道宿駅の江尻宿を開設されると、江浄寺は現在地に移転して市中山江浄寺と山号を改めた。
その頃の境内は約3,000坪(1万m2)の敷地を有し、善生庵、潮音院、観音堂などの諸堂が立ち並び、岡崎三郎信康(家康公の第1子の遺髪)の御廟所(ごびょうじょ)が祀られた。こうした経緯から東海道を往来する大名たちは行列を止め、必ずこの御廟(ごびょう)にお参りすることが常となっていた。朝鮮通信使の一行もこの寺に2回宿泊している。ところが江尻宿を襲った寛政の大火と安政地震で、この寺の伽藍と多くの記録類を失ったという。
岡崎三郎信康は、家康公と築山御前の嫡男で、武田家と内通していると疑われ、織田信長の命令によって築山御前と共に戦国の犠牲者となった。家康公は苦しむが、信長との同盟と徳川家存続を優先させた。天正7年(1579)9月15日、信康は遠州二俣城内で自害した。時に21歳で将来を嘱望されていた若武者だった。
慶長11年(1606)、信康の家臣であった榊原清政の侍女と平岩親吉(しんきち)の2人はこの寺の住職との縁で、信康の遺髪を寺の境内に埋葬し五輪塔を建てて供養した(「江浄寺パンフ」参照)。
清見寺(せいけんじ)
清水区興津の清見寺には、家康公に関わる逸話(いつわ)が沢山ある。清見寺の歴史は古く、聖一国師を招いて寺の落慶式が行われた時点までの歴史に遡(さかのぼ)る。それ以前は確証に乏しいが、東海の名刹にふさわしく多くの秘話が隠されている。家康公との関わりは、今川義元の人質時代に家康公の師匠であった臨済寺(葵区大岩)雪斎和尚が荒廃していた清見寺を再興していた。こうした関係から、清見寺の本堂の裏には、家康公手習の間が残されている。
清見寺の臥竜梅(がりゅうばい)
家康公は清見寺が好きだったようで、駿府大御所時代によく訪問した。寺の庭では度々能の会を催し、また住職の大輝和尚との会話を楽しんだ。寺の裏庭(国の特別名勝庭園)は小堀遠州の築庭といわれ、こうした経緯から駿府城の庭の亀石・虎石・牛石や、この他にも家康公お手接ぎの柿・臥竜梅(がりゅうばい)・柏(かしわ)・蜜柑(みかん)なども境内にあり、清見寺の「五木三石の庭」として著名である。
朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)と清見寺
家康公は慶長12年(1607)、豊臣秀吉の朝鮮侵略で冷え切っていた朝鮮国と日本の国交を正常化するため、呂祐吉(ノコンギル)を正使とする467名の朝鮮通信使節団の来日を駿府城で実現させた。この難題に取組んだのが、家康公の命を受けて外交に努力をした対馬の宋氏であった。朝鮮国とは9年の歳月を経て、ようやく日本との国交が回復した。
「通信使」とはお互いに「信を通わす」という意味で、両国関係の樹立を駿府大御所家康公が実現したものとして歴史上高く評価されている。大切な使節の宿舎(興津宿が未整備のため清見寺に宿泊)として選ばれたのが清見寺であり、江戸の帰路にもここに宿泊して御座船で三保湾遊覧をし、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)(知識人の意味)と筆談で高度な文化交流が清見寺で行われた。その時の文物が寺と周辺に伝わっている。
通信使の記録した「海槎録(かいさろく)」には、美しい南蛮船が駿河湾に投錨した様子が書かれている。それによると、「あたかも仙境のようであった」と記し、また海上に1艘の南蛮船が停泊していた様子を「その構造ははなはだ巧妙で、また極めて宏壮であった・・・」と記している。ところが日本の記録には一切見当たらないのは鎖国の影響で海外の情報が消された可能性がある。ところが平成17年に開館した九州国立博物館が、見事な屏風を入手していたことが判明した。「南蛮船駿河湾来航図」である。
境内には琉球王子の墓もある。遠く琉球から家康公拝謁に訪れた王子が、駿府で病に倒れ家康公の命によって清見寺に懇ろに葬られた。慶長15年(1610)8月のことである。
庵原村吉原善原寺(いはらむらよしはらぜんげんじ)の矢筒(やづつ)の功能
家康公は庵原の善原寺に参詣の途中、村の庄司澤家に立ち寄ってはこの家の清潔な湧水で身を清めてからお寺に参詣された。満願の日には矢筒を下され、中には矢が八本添えられていた。この矢は、オコリにかかった人が矢を削って煎じて飲むと治ると言われ評判となり遠近から多くの人々が訪ねて来たという。
そのため請われるままに削ったので、とうとう今では2尺(60センチ)余りのものだけが残されているという(「庵原村史」)。
三ツ石、八ツ石
巴川が深く入江になっていた当時、3個の大きな石が潮の満ち引きで顔を出していた。その数三個であったため、三ツ石と呼ばれていた。これは家康公が駿府城を築くため、西国の大名たちが献上したものだが、駿府城に運搬の途中で川に落としてしまったため「落城」につながるとしてその石は利用されなかった。
明治27年(1794)ここに出来た製紙工場が、川底から石を引き上げて会社の門柱としたものが今日に至っている。
海長寺(かいちょうじ)の椿(つばき)の御朱印(ごしゅいん)
家康公は天正時代、武田家臣と戦いをおこし敗れて清水区村松にある海長寺(当時は海上寺)に駆け込み難を逃れた話が伝わっている。それによると、追いかけられた家康公は咄嗟に境内の椿の大樹に身を隠していた。追手は寺の僧に詰め寄ると、僧は「知らぬ」と返答をした。追手の今福丹波に対して寺僧は、「寺中を探し、もしおらずばどうなされる」と言うと、今福丹波は「もしおらねばこの首を与える」と言って寺中を探した。ところが家康公は発見できなかった。
そこで丹波は、約束通り切腹し裏山に埋葬されたという。家康公は後に大御所として駿府城に来ると、海長寺に寺領8石を与えた。今福丹波とは、久能山城を守っていた武田の武将今福浄閑斎である(この記録は清水区の石川正樹様からも寄せられました)。
権現井戸(嶺温泉(みねおんせん)の起源)
永禄11年(1560)12月13日、駿河の戦国大名今川氏は武田信玄の駿河侵略によって滅びた。その時、清水区袖師の上嶺には陣屋が設置されていた。後の天正10年(1582)、織田信長と家康公によって、甲州武田氏討伐作戦が開始された。駿河国内の武田方の諸城は悉く攻略された。
このときに陣屋も占領され、家康公はその場所を本陣として武田攻めの後続部隊の参着を待った。その間にここに井戸を掘ったところ、鉱泉が湧き出たという。その鉱泉で傷病兵の治療に使用したが、後に1軒の湯屋ができこれが現在の嶺温泉とされているものという。(このお話は、興津井上町の佐野明生様から寄せられたものです)
土屋忠直と家康公
土浦藩の土屋家の出世物語として次のお話が、同じく興津井上町の佐野明生様から寄せられた。それは武田24将の1人、甲斐の天目山に散った勇将の土屋昌恒は、武田家の最期を見届けて討ち死にした。息子の平三郎忠直は、母が駿河の岡部丹後守の娘であった関係から、甲斐を落ち延びて駿河に逃げた。当初は有度にある、楞厳院(りょうごんいん)(曹洞宗)の寒妙(かんみょう)和尚を頼った。
後に興津の清見寺(臨済宗)に移り住み、母は剃髪して智光尼(ちこうに)と名乗り、彼は大輝和尚の弟子となって亡き父の菩提を弔った。歳月は巡り天正16年(1588)9月、鷹狩りの帰途この寺に立ち寄った家康公、お茶を運んできた11歳の小坊主を見て「誰の子か」と住職に問うた。するとこれが有名な昌恒の遺児と知った家康公は、名門土屋家の再興を考慮し直ちに還俗させた。
子供は側室の阿茶局の養子となり、翌年の17年(1589)3月には秀忠公の近習として仕えさせた。以後は人も羨む累進出世をし、従五位下民部少輔に叙任されて2万石の上総国久留里城主になった。この家が後の常陸国土浦9万5,000石の土屋家で、幕府の寺社奉行や老中などの要職を多く輩出した家柄であった。