家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて
梅ケ島地区
梅ケ島金山
梅ケ島金山も安倍金山と総称して呼ばれるが、本来の意味は「安倍山にあった金山」の意味である。現在の葵区安倍口新田付近を、昔から「安倍口」と呼んで安倍山に出入りする入口の総称であった。この安倍山ではかなり広範囲に砂金の採集が行われ、各地に「金場・金山・金」の地名が広く点在する。なかでも安倍山での金の採掘が、特に知られていた場所が梅ケ島金山と井川金山である。 金採掘が行われていた安倍山には、いつの頃からか山師(野武士)が定住し金掘の村を形成していった。安倍7騎の伝承は、そうした武士の定住によるという説もある。また梅ケ島金山のゴールドラッシュは、家康公の駿府大御所時代であり、中でも日影沢金山が有名である。しかし、高度の軍事機密であったため、金山の詳細は井川にも梅ケ島にもその実態は明らかになっていない。 ただ梅ケ島金山については、家康公自らが金の采配を握っていたことが「山例53ヶ条」(天正16年)といわれる古文書から推定される。つまり天正期の家康公の5ヶ国支配当時に発給したものという。こうした金山の魅力も手伝って、家康公は征夷大将軍を退いて駿府に大御所を置いたと見る説もある。
大久保長安(おおくぼながやす)
大久保長安は自ら家康公に謁見した時、「自分こそ天下一の産金技術を持つ人物」として売り込んだといわれている。事実、彼は優れた鉱山技術と鉱脈を見分けができる天才であり、家康公の下で沢山の金山の開発に尽力した。大御所時代に梅ケ島の日影沢金山の産出量は、享禄年間の「元栄」に対して「中栄」と呼ばれ、慶長時代には想像以上の金を産出した。
このときの日影沢金山では、日本最初の金山法度(山法書ともいう)が制定された。また一説によると、この時には、スペインからの南蛮技術による産金法(アマルガム法)が取り入れられたのも梅ケ島と推定される。梅ケ島の金鉱脈は、入島から山へ山へと進み、その方角は日影沢に向かっていった。家康公時代の鉱夫は「野武士」であり、農工商より身分が高かった(「梅ケ島金山の盛衰」)。
閑話休題
今川家7代の戦国大名今川氏親(うじちか)(義元の父)の時代は、安倍金山の採金が高まり、また優秀な金堀人足としての金山の土木技術集団が存在していた。こうした事情から、金山衆は今川氏の戦闘集団に組み込まれ、合戦の折には敵の城を攻略するための得意な土木技術を駆使した。例えば浜松城攻めの時には、敵城の井戸水を破壊する行為などをしていたことは有名で、著名な連歌師宗長の記した「宗長(そうちょう)日記」にも、金堀人足の活動が歴史上最初に登場するのも安倍金山衆であった。