大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所の町・駿府城下町の誕生

勝手に流れていた安倍川

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勝手に流れていた安倍川今川義元の頃の中世の安倍川は、藁科川から独立し複雑な流路を形成していたという。安倍川の名前はこれらの総称であったらしく、賤機川・北川・妹川・横雄川などと呼ばれていた。北川は浅間神社前を迂回して、臨済寺方面から麻機沼へと流れ、途中から足洗方面へ流れた。安倍川の本流は、現在の中町(静岡市街地)を堂々と流れており、そこに祀られていたのが川中の天神さん(現在の中町の天神さん)である。つまり中洲を形成していた所に、この天神さんが祀られていたという。この流れの一つは静岡市役所静岡庁舎を過ぎた辺りからまた別流となり、妹川とか横雄川となって新静岡センター方面にも流路を形成していたという。

安倍川と藁科川の間には大きな中州があり、その辺りには中津神社があったという。平安時代の「延喜式神名帳」によると、中津神社が安倍郡にあった。この神社のあった場所を「川辺郷」と言われていたという説がある。その川辺に、徳川家康は駿府大御所時代に即した、全く新しい駿府城を建設し、天守の真下に世界各国の船を接岸させるという壮大な夢を捨て切れずにいた模様だ。

中津神社と川辺の場所をめぐって歴史的論争があった。中津神社は住吉大明神を祭った社であり、昔は現在の舟山(安倍川の中の島)にあった。それがいつしか現在の住吉神社の場所に移ったというものである。やがて「中津」の名前は安倍川の改修とともに消え、いつしか「御神体名」で住吉神社と呼ばれたという。

住吉神が航海の神であることを考えると、家康の駿府城天守の下まで世界のガレオン船を引き込むという壮大な計画も案外、絵空事ではなかったのかもしれない。

安倍川と呼ばれたのはいつのことか。調べてみると、承和2年(835)の記録に登場し、今川義元の弘治年間(1555-58)にも登場してくる。その後の天正年間に徳川家康が駿府城を造営した時、材木を持舟港(静岡市用宗)から川伝いに運搬していることや、今川氏親の菩提寺増善寺の舟がこの港に停泊させていたという伝承からも、水運として頻繁に安倍川が利用されていたことが想起される。

また舟山の伝承もおもしろい。安倍川の中にあるこの小さな島は、藁科川や安倍川からの材木を利用して、ここで舟を造船していたことから「舟山」と呼んだという。

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