大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大航海時代の駿府の家康公

ジパングを求めて

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ジパング(日本)を探すため、1492年(家康が生まれる50年余り前)コロンブスはスペインのフェルナンド国王とイサベル女王を説得し第一回の航海に乗り出した。ヨーロッパ人は未だに地中海世界に留まっていたが、遠い海(大西洋)に向かって行動を開始した。コロンブスがその第一歩を踏み出した。コロンブスが大西洋を横切り、最初に到着した場所はカリブ海の一孤島(注)であった。ところが彼は最後まで「自分は日本(ジパング)の近くに到達した」と頑なに信じたままこの世を去っている。しかしスペインの宮廷にいたイタリア人ピエトロは、地球の大きさから推してもコロンブスがアジアに到着するはずがないと、ローマ教皇に書き送っているのが当時の地球観といえるだろう。

(注)コロンブスが最初に到着した島は、現在のキューバ近くの西インド諸島の一つサン・サルバドル島であった。

コロンブスの探検によって、それまでヨーロッパ世界で地の果として軽視されていたイベリア半島の先端のリスボンの港と日本の駿府はこの時から宿命的に繋がっていたことになる。この間には広大なる新世界(南北アメリカ大陸)と更に世界最大の太平洋があった。それでもヨーロッパの冒険者たちの船出は休むことなく続いた。アメリカ大陸を横切り、太平洋を越えてジパング探しは続いた。地理上の発見も相次ぎ、中米メキシコのマヤやアステカ文化それに南米ペルーのインカ帝国との遭遇もあった。これらの背後には、「黄金の国ジパング」を探すという飽くなき夢があったからと言える。

1519年(日本暦で永正16年)メキシコのアステカ王国を滅ぼしたスペインは、この地域を「ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)」と呼びスペイン副王をここに置いた。この年は今川義元が生まれた年にあたる。ヌエバ・エスパーニャとは、現在のメキシコである。大御所時代には、「ノビスパン」とか「濃毘数般」また「能比須蛮」などと呼ばれ、家康外交文書もこのように記していた。家康がメキシコとの貿易振興のため、使節をこの国に派遣したのが慶長15年であった。

アダムズに建造させた船スペイン人の日本進出は、メキシコ東海岸のアカプルコとマニラを結ぶ赤道海流を利用しての太平洋航路でつながっていた。家康はなぜか、このメキシコとの貿易に深い関心を示していた。こうした経緯から家康は、アダムズに建造させた船(120トンの小帆船)で慶長15年(1610)太平洋横断に成功した。これが「大御所メキシコ使節」(注)である。日本人が日本人によって造船された船で、太平洋を横断したのはこの時が初めてである。ところが大御所時代の研究が遅れているため、こうした事実はあまり知られていない。

このときの使節が再び駿府に帰国したのは、翌年の慶長16年(1611)であった。「駿府政事録」は次のように記している。

慶長十六年八月廿日
「長崎所司長谷川左兵衛尉藤廣着府大明南蛮異域之商船八十余艘来朝則快為商売之旨言上ス」

慶長十六年九月廿日
「南蛮世界ノ図屏風有御覧而及異国々之御沙汰」

慶長十六年九月廿二日
「去年京都ノ町人田中勝介、後藤少三郎ニ而望渡海ヲ、今夏帰朝ス、数色之羅紗並ニ葡萄酒持来件ノ紫羅紗其一也。海路八九千里ト云々。」

(注)家康はこの船に商人田中勝介以下二十二人をメキシコに渡航させた。このとき鉱山の精錬法をはじめ、スペインの先端技術を駿府に持ち帰ったともつたえられているが定かではない。

「駿府政事録」(慶長16年)8月16日の項に、「長崎所司長谷川左兵衛尉藤廣着府大明南蛮異域之商船八十余艘来朝則快為商売之旨言上ス」(長崎所司の長谷川左兵衛尉藤廣が駿府に来て、大御所に大明国や南蛮その他の異境の商船が八十艘余り日本に来て大変快く商売に精を出していることを言上す)とあり、日本にはたくさんの外国船が長崎方面に来航していることが理解できる。

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