家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて
駿府城内の伝説から
一富士、二鷹、三茄子
慶長11年(1606)に家康公が駿府に隠居することを決めた時、愛妾の某が「江戸は大都会の地なのに何故駿府のような小さな町に移られますか、理由が解りません」と言上した。すると家康公は、笑って「駿河には一に富士山があるよ、これは三国中(日本・中国・天竺)の中でも唯一の名山だ。見あきることはあるまい。二に鷹がよい(これは民情視察と運動になる)。三に茄子を名産として、他所より早々に食べられる。またすばらしく美味じゃ。」
いつの世も、この三つ総てに吉だと告げたという。またこの三つを夢にみれば、諸事大吉とはこれからはじまったという。こうして家康公は、幼少時代を過ごした「駿府」を大御所の地として選んだのである(「本朝諸数 伊豆・駿河・遠江」より引用)。
注記:清水区の折戸の茄子の項目参照
駿府城内にあった小梳神社(おぐしじんじゃ)(少将さん)
今川家人質時代の竹千代(家康公)が、将来を夢見て武運長久を祈った神社が小梳神社であった。この神社は静岡で最も古い神社の一つと言われ、現在は葵区紺屋町にあるが、昔は現在の駿府城内(三の丸が拡張される以前の場所)にあって、駿府城の守護神としても祀られていた。神社の歴史は古く、大宝令(古代の法律で、土地は国家の所有とされた)が定められ駿府の近くには横田駅が設けられたが、この神社はその守護神として信仰されていた。つまり神田明神の様な位置づけかもしれない。
また祇園信仰が全国的に広まると、神社の名前も「少将井宮(しょうしょういのみや)」とも呼ばれた。慶長12年(1607)の家康公の駿府城拡張のため、神社は現在地に収まった経緯がある。
そもそもこの神様は、京都に夏を告げる祇園祭の始まりとしても知られるように、疫病退治と災厄除去を祈るため、祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)とも深い関係があった。特に応仁の乱の後には、現在のような様式へと定着したという。駿府でも今川時代には祇園信仰を「少将(しょうしょう)さん」 として呼ばれて親しまれており、そんな頃に駿府で人質生活をしていた家康公は、祖母の於大の方とこの神社にお参りしては、武運長久を祈願したと言い伝えられている。境内には駿河の地誌を克明に編纂した、駿府の偉大な学者新庄道雄の碑(静岡市文化財)がある。
駿府城天守は階層不一致
駿府城天守の外観は、外から見ると5層(5階)に見えたが、内部は7階の建物であった。つまりフェイント(誤魔化して敵を欺くため)構造である。具体的に天守を覗いてみよう。1階の屋根は瓦葺、2階以上は白鑞葺(しろめぶき)(鉛と錫の合金で高価な金属瓦、最上層の屋根は銅瓦葺(どうがわらぶき))。軒瓦(のきがわら)は鍍金(めっき)(金メッキ)で、棟(むね)の両端は黄金のシャチ鉾(ほこ)でそれらの装飾が光輝いていたという。破風(はふ)は銅で蔽(おお)われ、懸魚(げぎょ)は黄金の鍍金を施していたと記しているのが江戸時代の「当代記」その他の記録によるものである。
汐見櫓(しおみやぐら)と黄金の鯱(しゃちほこ)
天守は汐見(しおみ)櫓とも呼ばれていた。これは天守最上階から見事な富士山や駿河湾が遠望できたからである。このため天守に飾られた黄金の鯱(しゃちほこ)が、日夜太陽や月の光で輝き、駿河湾の魚が怖がって逃げるため、漁師は漁が出来ずに困ったという伝説が残されている。また大久保石見守(いわみかみ)長安(金山奉行)は、駿府城天守造営のため黄金30万枚を献上して家康公のご機嫌をとっていたという話も伝わっている。
本丸御殿のお庭(紅葉山庭園)
駿府城の本丸御殿を覗(のぞ)いてみよう。そこには蘇鉄(そてつ)15本、中でも蛇形(へびがた)蘇鉄は13間もあり、丁度大蛇が這う程の大きな古木だったという。蘇鉄は武士達が当時、とても好んだ植物の一つであった。紅葉山(もみじやま)庭園には、実割梅(みわりうめ)、早咲き椿、それに家康公お手植えのみかん(現存)もある。このみかんは現在でも静岡県天然記念物で、昔あった場所に現存している。場所は本丸御殿のあった場所の一部と考えられている。
家康公の気配りと堅物(かたぶつ)の秀忠公
家康公は息子秀忠公があまりにも堅物のため、彼のように律儀一辺倒では役に立たないと日頃考えていたという。そんなある日のこと、本多正信が駿府城内で秀忠公に「殿もたまには嘘をつかれたらいかがですか」と言うと、秀忠公は「父上の空言は耳を傾ける者があるかもしれないが、わしが嘘をついたところで買い手はあるまい」と答えたという。
そんな堅物の秀忠公が、あるとき駿府城にまたやって来た。その折に家康公は、ひとり寝では寂しかろうと気をきかせて、えり抜きの美女にお菓子を寝床に持たせたところ、菓子だけ受け取るだけで、その美女に「父上に宜しく伝えてくれ」といって手も付けずに帰らせたという話もある。
駿府城に出た化け物・仙薬(せんやく)、封(ふう)
家康公が駿府城にいたある日の朝だった。御殿の庭に妙な動物が現れたという。子供のような風体であるが、全身は肉の塊で奇怪この上なく、観ていた者はその姿形に驚きただ騒ぐだけであった。この事件が家康公の耳にも届き、近侍(きんじ)(そばで仕えている侍)が事情を述べ家康公に処置を訪ねた。すると家康公は、「その怪物を人の見ぬ場所に追い出せ」と言った。怪物は城外から更に遠い山奥に追い払われたという。その後に、ある人物がこの話を聞いて残念そうに、「惜しいことをした。またとない仙薬を取り逃がした。それは白沢図に出てくる封(ふう)という獣に違いない。その肉を食べると力が出て丈夫になり、しかも武勇も優れる。殿様に差し上げぬまでも、公達や群臣(ぐんしん)に食べさせたかった」と、しきりに口惜しがったという(「駿河の伝説」)。
雷と家康公
小山枯柴著の「駿府の伝説」によると、或る日のこと駿府城に雷が落ちた。家康公は被害を少なくするため、「人が大勢固まっては危険だ」と注意したという。
キリシタン灯篭
家康公が駿府城にいた慶長17年(1612)、キリシタンつまりキリスト教を禁止した。駿府での禁止をスタートに、禁教令は全国各地に広がり多くの教会が壊された。「徳川実記」という幕府公式の記録によると、駿府城下では慶長12年(1607)ころから信者が次第に増加し、教会も2箇所造られていたが、これらの教会もやがて取り壊されたという。
駿府から始まったキリシタン迫害は、全国的にも壮絶なものだったと言われている。江戸時代初期のキリシタン信者の弾圧は、ここ駿府を皮切りに全国に広がり、その状況を来日したイギリスの国王使節セーリスは、「ジョンセーリス日本滞在記」(異国叢書)に記録を残している。
こうした背景の中で、駿府町奉行所(市役所葵区役所のある場所)には、耶蘇地蔵(やそじぞう)の不思議な話が伝わっている。「駿国雑志」という江戸時代後期の地誌によると、駿府町奉行の井上左門正章(いのうえさもんまさあき)(文化11~文政3)の話として、次のように伝承されている。それによると、「これは元、駿府城の奥庭の紅葉山に在ったもので、後にわけあってここに移してお預かりした。形は地蔵型で、高さ6尺(2メートル)ばかりで、誰かが誤ってこれに手を触れると必ず病難がある。そのため常に香花お茶を供えて平穏を祈っている。もし病に罹(かか)るとお供えのお茶を飲むと治る不思議な耶蘇地蔵である」という。
静岡にはこの外にも耶蘇地蔵と呼ばれる人型灯籠があり、形が聖母マリアに似ていることから呼ばれた模様である。耶蘇地蔵と呼ばれる石灯籠は、次の場所に残されている。場所は、宝台院・石鳥居前の志貴家・井宮瑞竜寺・伝馬町宝泰院・紺屋町浮月楼であり、是非興味のある方は訪ねてみて下さい。
駿府城の火災と禁煙令
タバコが日本に入ってきたのは、天正時代とも慶長時代ともいわれている。駿府では慶長の大御所時代という。ところが駿府城内では、度々不審火があり火事に懲りていた家康公は、慶長14年(1609)7月禁煙令を出した。
ところが一向に禁煙令は守られず、家康公は「耕作売買まで禁じ、罪を犯すと財産没収」としたが守られることはなかった(「日本食生活史」)。慶長16年(1611)に家康公は、キリシタン禁令とともにタバコの再度禁止を命じた。キリシタン禁令と対照的に、タバコだけは法度でも守られなかったという。
同じ頃にイギリスでも、全く同じタバコの禁煙令を国王ジェームズⅠ世がイギリス国内で実施した。ところがイギリスでもこの法令は守られなかったという。
家康公、三の丸で花火見物
イギリス国王ジェームズⅠ世の使者ジョン・セーリスは、慶長18年(1613)に貿易交渉のため駿府城を訪れた。この時の会見の様子は、イギリス人ウイリアム・ダルトンの挿絵として残されている。セーリスとコックスが家康公の前に立ち、家康公は2人の目線に合う高さの高座に座って会見している。しゃがみ込んで通訳をしているのがアダムズである。
大航海時代の駿府と家康公の様子は、この貴重な挿絵を見ているだけで伝わってくる。この時にイギリス人使節は、花火を家康公にプレゼントして駿府城三の丸で打ち上げたことが、日本側の記録(「駿府記」)に記されている。
大金持ちの家康公
外国人アビラヒロンの「日本王国記」によると、家康公は世界一の大金持ちであったという。伏見城の御金蔵には金銀財宝をぎゅうぎゅう詰めにしていたため、その重みで床が抜け落ちたという。伏見のお宝は、駿府城が完成すると天守近くの御金蔵に移された。
中村孝也氏の研究によると、金だけでも60万1,053両。それに貿易で入手した品々も多かったという。総額は100万両といわれ、家康公が没すると御三家に分配し30万両が残った。この金は久能山に御金蔵を建て保管した。
実はこの金を奪い取り、軍資金として徳川幕府転覆を企てたのが駿府生れの由比正雪である。事件は事前に露見され、正雪は駿府梅屋町の梅屋勘兵衛の家で町方に取り囲まれて「最早逃げられない」と悟り自害した。いわゆる慶安事件である。この事件の顛末を記した古文書が、藁科富沢村名主宅に現存している(「由比正雪一件写」慶安4年辰年)。慶安事件については、「駿府秘章」にも記されている。
駿府城内の七不思議
- 米蔵の黒狐(くろきつね)
米蔵の黒狐対策をいくらしても、狐が蔵に侵入して困った話。 - 鳴かず蛙(かえる)
堀の蛙の鳴き声に閉口した家康公のため、家臣が苦労して蛙を退治した。家康公の一喝で蛙が静かになったと家臣たちは家康公に告げていた。 - 葵の鈴虫
お城の葵の鈴虫は、美声で鳴くため評判がよかった。それを聞いた好事家が城に忍び込み、捕らえられた。そこで鈴虫は、自分のために捕まったのは可哀そうと、以後鳴かなかったが牢から出されるとまた鳴き始めたという。 - 実割り梅
たやすく2つに割れて、中まで食べられる重宝な梅があった。これは久能山に移植されて現存している。 - ゆかず雪隠
城内の雪隠(トイレ)には、米蔵の黒狸が出ていたずらをする。ある日、腰元と足軽が畳敷の雪隠で逢引(あいびき)していると、別の腰元が用足しに来てびっくりして失神。その腰元は「二匹の黒狐を雪隠でみた」と言ったため狐の噂がさらに広まったという。 - 枯れずの井戸
日照りがあっても、城内の井戸は決して涸(か)れることがなかったという。 - 朝顔の謡
城内では朝顔の謡を謡うと悪いことが起こるとして、謡うことを禁止していたという。(「本朝諸数 伊豆・駿河・遠江」より)
江戸時代の「府中八勝景(はっしようけい)」
- 八幡夕照(やはたのゆうひ)
八幡の夕暮れの残照の美しさは天下一品 - 前浜帰帆(まえはまきはん)
有度浜(うどはま)を往来し、清水湊に帰る千石船 - 上土夜雨(あげつちのよるのあめ)
巴川と合流する上土の夜の雨 - 清見晩鐘(きよみのばんしょう)
興津清見寺の晩鐘 - 狐崎晴嵐(きつねがさきのせいらん)
狐崎周辺の晴嵐 - 天柱秋月(てんちゅうのしゅうげつ)
丸山福田寺の仲秋の名月 - 竜爪暮雪(りゅうそうのくれゆき)
竜爪山(りゅうそうざん)の師走の雪景色 - 麻畑落雁(あさばたのらくがん)
麻畑沼に飛来する雁の群れ