駿府城発掘情報
駿府城発掘情報
三ノ丸大手御門(さんのまるおおてごもん)
駿府城三ノ丸の大手門は、三ノ丸堀を土橋で渡り、右に折れる虎口構造が現在も良好に残っています。江戸時代には、櫓門が存在していました。発掘調査は、昭和50年と平成3年に行われ、いずれも歩道部分で櫓門の柱を建てる礎石が発見されました。現在も歩道部分に確認された礎石の位置が舗装の色を変えて表示されています。櫓門の様子は、江戸時代末か、明治時代当初に描かれた絵図によって詳細に知ることができます。
三ノ丸大手門現状 | 平成3年の発掘調査状況。 ここに渡櫓が存在した |
発見された櫓門の礎石 |
三ノ丸青葉小学校地点
青葉小学校地点は、家康が亡くなった後に、城代屋敷が合った場所です。発掘調査では、家康在城時の遺構として、石組みの排水路と排水枡が検出され、二ノ丸堀に向かって側に暗渠状に木製の樋が延びていました。
駿府城三ノ丸 (青葉小学校地点の排水桝と排水路) |
||
三ノ丸城内中学校地点
城内中学校地点では、地下を掘り、内側に石積みした遺構(大井戸状遺構)が発見されました。規模は、下端で、長さ6.4m、幅2.1m、深さ2.2mです。この遺構からは「元和三年二月二十日」と刻まれた木製品(まな板)が出土しています。
駿府城三ノ丸 (市民文化会館地点で検出したの建物が崩壊した状況) |
||
三ノ丸市民文化会館地点
市民文化会館地点は、勤番組頭の屋敷があった場所です。によって、建物の一部が倒壊したような状態で確認されており、これらに関係する建物の可能性もあります。
駿府城三ノ丸 (城内中学校地点の大井戸状遺構) |
||
東御門、巽櫓(ひがしごもん、たつみやぐら)
巽櫓は、二ノ丸南東の隅櫓です。二重三階(外見は2階に見えるが中は3階建て)の構造で、L字型のに折れ曲がる矩折となっています。平成元年に復元されました。
東御門は、二ノ丸堀を渡って三ノ丸から二ノ丸へ入る門の一つです。桝形構造の門で、二ノ丸堀を渡ると高麗門があり、右に折れたところに櫓門が築かれています。この間の四角な空間が武者溜りです。この場所は、終戦まで、歩兵第34連隊の正門となっていたため、桝形西側の石垣は撤去されていましたが、平成8年に石垣を含め復元されました。
発掘調査は、昭和61年と平成3年に行われ、桝形西側の石垣の根石が確認されました。櫓門部分は、根石の下に「胴木」と呼ばれる土台の木が確認されました。
東御門正面 | 巽櫓二ノ丸堀側から | 発掘調査によって確認された東御門石垣の根石部分 |
東御門渡櫓部分で確認された 石垣下の胴木 |
胴木の組合せ部分 |
米蔵(こめぐら)
米蔵は、東御門から二ノ丸水路までの間に建っていました。古文書によると、一番から十番までの米蔵が、2棟ずつの棟続きで、コの字型に配列されていました。
発掘調査は、平成2年と平成4年に行われ、建物の礎石や礎石の抜き取り跡には、根固めの小石が検出されました。軒下には、排水用の石組みの雨落溝が存在しています。米蔵跡は、古文書に帰された配列とほぼ同じ状況で発見されていました。
発掘で確認された米蔵跡の礎石の抜き取り跡(コンクリートは34連帯の基礎)。 | 米蔵跡の礎石と雨落溝 | 米蔵跡軒下の排水用の雨落溝 |
二ノ丸水路(にのまるすいろ)
二ノ丸水路は、本丸堀と二ノ丸堀を結ぶ水路で、本丸側は、上端で幅約4m、底部で約3m、深さ3~4mとなっており、二ノ丸側は、上端幅約7m、底部幅約3m、深さ約8mで、全体の形は4ヶ所折れ曲がって本丸堀と二ノ丸堀をつないでいます。本丸堀との接続部分は本丸堀側が深く、流れ出る水の量を調節して、堀の水位を保つような構造となっており、これに続く部分の底部は石畳状に石敷きされているというめずらしい構造になっています。また、水路には、御水門多聞櫓が渡されていました。この部分には、水路内に土台となる木材も渡され、その状況から、侵入者を防ぐような施設があったものと考えられます。
二ノ丸水路の現在の状況。 | 発掘調査時点の上空写真。 折れの状況が良く解る。 |
二ノ丸水路の石敷き部分。 |
二ノ丸水路内の御水門多聞櫓が 渡る部分に設置された土台材。 |
御殿跡・台所跡(ごてんあと・だいどころあと)
御殿跡・台所跡は、平成9年度から平成10年度にかけて行われた発掘調査によって、二ノ丸の北東側で発見されました。二ノ丸北東側部分は、東側の土手から連なる中仕切り土手が西方向に張り出し、南北に区域を分けています。この、中仕切りの北側に御殿跡があり、南側が台所跡となっています。
御殿跡は、遺構の残りが悪く、礎石が抜き取られており、内部構造は不明な点も多い。建物の周囲は、石組みの雨落ち溝で囲まれています。台所跡は、比較的良い状況で確認されました。礎石がきれいに配置されている北側部分と、土間となっている南側部分に分かれ、土間の部分には、竈跡も検出されました。また、台所西側の正方形に石敷きされたところは、井戸跡です。現在、この一画は、「紅葉山庭園」と「茶室」となっています。
御殿跡と台所跡の全景写真真上から | 御殿跡部分の上空写真 | 台所跡部分の上空写真 |
台所跡の礎石の配列が良好に 確認された。 |
御殿跡と台所跡の中間に 存在する中仕切り。 |
北御門(きたごもん)
北御門は、二ノ丸北側の門で、三ノ丸側から土橋が張り出して橋をかける形状です。平成15年度に橋の架け替えに伴って発掘調査が行われました。その結果、北側から張り出した土橋の長さが現在より長いことや、その先端部分の石垣根石が確認されました。さらに、橋のほぼ中央部分では、丁寧に面取りされた太さ約40cmの橋脚が横に並んで2本発見されました。
北御門の現在の状況 | 発掘調査状況と 土橋部分東側石垣 |
発掘調査で確認された 土橋部分先端の石垣根石 |
発掘調査で発見された橋の橋脚 |
二ノ丸御門(にのまるごもん)
二ノ丸御門は、二ノ丸の南側にあり、三ノ丸から二ノ丸へ入る正面の門です。堀を渡ると高麗門があり、右に折れて櫓門となる駿府城で最大の桝形構造です。現在、橋はありませんが、二ノ丸堀外側(県庁側)から見ると、二ノ丸御門の部分だけ小さな石が詰められているので、その場所を見つけることができます。
平成17年度の発掘調査では、桝形の北側を構成する部分の石垣根石が検出され、桝形の位置を確定することができました。また、発掘調査で確認された石垣根石部分には、刻印が多く確認されています。
確認された二ノ丸御門石垣根石 | 二ノ丸御門石垣根石(北側面) | 二ノ丸御門石垣根石(南側面) |
石垣刻印 | 石垣刻印 | 石垣刻印 |
坤櫓(ひつじさるやぐら)
坤櫓は、二ノ丸南西の隅櫓で、1階部分が、7間×7間と櫓としては大きな規模のものです。2重3階の構造で、古資料によると、名古屋城の本丸東南隅櫓等に類似した形状であったと考えられます。発掘調査では、櫓台の内側(北東角)部分の石垣が確認されました。石垣は、高さ約4mで、土手の内側斜面に合わせるような形状となっています。積み方は、いわゆる打ち込みハギで、築城当初の積み方となっています。
また、坤櫓の二ノ丸堀側の石垣にも打ち込みハギで積まれた石垣が残っている部分があります。
坤櫓櫓台石垣、北東角部分 | 坤櫓櫓台石垣、北面 | 坤櫓櫓台石垣、東面 |
本丸堀(ほんまるぼり)
駿府城は、三重の堀が巡る城です。本丸堀は一番内側の堀で、明治29年に歩兵第34連帯が使用することになり、埋め立てられたため、その全容は不明なままでした。今見ることができる本丸堀は、平成2年の発掘調査によりその位置を確認し、南東の角部分をそのまま残してあります。堀の幅は約25mで両側は石垣となっています。本丸側石垣のうち、下段の2~3段は、慶長期築城当初の古い積み方が残っています。さらに、平成9年の発掘調査で、北東角部分も確認されています。
現在の本丸堀南東部分 | 発掘調査時点の本丸堀南東部分 | 南東部分本丸堀石垣(本丸側) |
南東部分本丸堀石垣(本丸側)で、下側の2~3段は築城当初の古い積み方が残っている。 | 北東部分本丸堀石垣(本丸側) |
台所御門(だいどころごもん)
台所御門は、本丸東側の門で、二ノ丸側から堀を渡ると、まず高麗門があり、左に折れると櫓門となる桝形で、本丸堀に少々張り出す構造です。このため、本丸堀の幅は北東付近では約30mと推測されますが、台所門正面は、幅約17mとなっています。発掘調査では、高麗門の両袖の石垣の根石と、控え柱の礎石が確認されました。台所御門部分の本丸堀石垣は、石の大きさや材質などから幕末頃積み直されたと考えられます。現在、紅葉山庭園前広場の本丸側周辺が台所御門の位置となります。
紅葉山庭園前の広場の内側部分に台所御門がありました。 | 台所御門部分石垣南側から。 | 台所御門部分、本丸堀側正面から |
発掘状況
鉛製大砲の弾(東御門周辺出土) | 黒織部沓型茶碗 (三ノ丸城内小学校地点出土) |
瀬戸美濃天目茶碗 (ニノ丸御殿出土 |
銅緑釉丸碗(二ノ丸御殿跡出土) | 織部皿(二ノ丸御殿跡出土) | 青織部向付(二ノ丸御殿跡出土) |
中国製染付磁器類 (二ノ丸御殿出土) |
陶器製印 (三ノ丸城内小学校地点出土) |
葵紋鬼瓦(二ノ丸水路出土) |
鍔(二ノ丸水路出土) | 肘金具(本丸堀出土) | 鉛インゴット (二ノ丸水路出土) |
唐津沓型茶碗 (三ノ丸城内小学校地点出土) |
||