はじめに
戦国覇者・家康公の実像
戦国の乱世をかき分け、ものの見事に天下の覇者となった家康について世間の人々の反応は様々であり評価もわかれた。「織田が搗(つ)き、羽柴がこねし天下餅、座して食らうは徳川家康」。徳川幕府が傾いたころ、歌川芳虎によって武者絵が描かれた。この歌のように織田信長と明智光秀が餅をつき、ついた餅を豊臣秀吉がのし、できたての餅を家康が努力しないで棚ボタ式に座って食べている絵である。この絵は天保8年(1837)、「道外武者御代の若餅」として出版された。
先人が苦労して築いたものを、徳川家康がやすやすと手に入れた経緯を風刺したものである。これは幕府に対してきわめて不遜な意思表示として、芳虎と版元は手鎖50日の刑罰を受け、さらに版木は焼却処分とされたが、ひそかに残されたものである。
このように後世の人々が家康を酷評し、さらには狡猾(こうかつ)な狸親父などとまで付け加えた。しかし、ただ座っていて天下が取れるものではなく、家康は幼少年時代に人一倍苦労を重ねていた。このため人々の心の動きや心理も人一倍鋭く観察し、戦国の世を生き抜いた人物といえる。家康は「待つ」ということと「耐え忍ぶ」ことを心得ていた。
家康ほど正確に情報を集め、慎重に行動した人物も少ない。だからこそ戦国の世を平定し、新しい江戸時代を築くことができたわけである。これと対照的なのが今川義元である。義元は名門今川家に生まれ、京都の公家と深い関係があったことから公家趣味が高じて「公家となった戦国武将」などと呼ばれた。歯にはお歯黒を塗り、蹴毬(けまり)に熱中していた。平和な時代ならそれも良いだろう、ところが戦国時代である。そんな今川義元は、どの戦国大名も為し得なかった上洛を目指して2万5千(4万とも言う)の大軍を動かした。ところが3千の織田信長の精鋭に行く手を阻まれ桶狭間で不覚を取って命を落とした。
織田信長は、信頼していた家臣明智光秀に襲われ自害した。「本能寺の変」である。織田信長は過去の亡霊やしがらみに拘束されることなく、戦国時代から近世社会への橋渡しを行った斬新な武将であった。ところが己の能力を過信し、家臣たちの管理が行き届かず命を縮めた。本能寺の事件は、己の実力だけを信じ、人の心が読めなかったために自らまいた種で命を落としたことになる。信長が伝えるべき情報をきちんと光秀に伝えていたならこの事件はなかったという。「本能寺の変」は、信長の家臣の人事管理がお粗末であったことを露呈したことになる。信長は世の中の移り変わりは読めたが、人の心が読めなかった。
信長は人間も含めて、すべてを道具として使った合理性の持ち主という。そんな信長と会った宣教師ルイス・フロイスの記述によると、「彼は、神も仏も恐れない。あの世も信じていない。そして、非常に誇り高く、またおごり高ぶっている。自分の部下に対しては、どんな重要なポストに就いている者に対しても常に居丈高だ。見下して、頭ごなしにものをいう。それなのに、部下たちはどんな重い役に就いている者でもこの信長を恐れていた」という。
次に登場したのが豊臣秀吉である。秀吉は自分の出世だけに熱心で、世継ぎ対策つまり後継者の育成が不充分であった。幼ない秀頼を溺愛するあまり、徳川家康をはじめ大名たちに息子を天下人にするよう託すという有様だ。戦国の世の時代感覚と余りにもずれている。
ところが家康は、これら3人とは違った。最後の最後まで緊張の糸を緩めることなく、63歳にして「天下餅」を手に入れた。家康は「天下餅」を食べる資格が十分にあった人物だ。家康の生き方は、その半生を振り返って見ればよくわかる。しかも単に天下を取っただけでなく、その天下がいつまでも続くように新しい秩序を組み立て、あらゆる問題の種を解決してこの世を去った。
また世継ぎもしっかり造り、おまけに人質要員のためにも生涯11人の男子を産ませたが、うち2人は早世している。家康没後の後継者には秀忠を、さらに秀忠の後継者に家光を決めた。秀忠も家光も、家康の遺志を立派に継ぎ、2人とも家康の足らざるところを補完しながら世代を越えて徳川家を盛り上げ、共に偉業を為し遂げた。しかも同じ葵の紋章をシンボルとして徳川幕府創立に心血を注いだ。
現代の日本のように、混迷に陥った社会を立て直すためにも、新たな秩序と創造力を徳川三代の為し遂げた江戸国家成立の中に学ぶ意義は大きい。関ヶ原の戦いも、現代社会の混迷に似ていた。家康は真っ暗闇の中を歩くように、何かを頼りとして進み部下もそれに従った。家康は歴史が読め、時代が読めたのだろう。時代の渦中にいると、世の中の動きが見えないものだ。歴史を客観的に眺めていると、微かに動きが感じられる。
新しい時代を予見した信長や家康は、その何かを見付けて中世社会に見切りをつけた。スクラップ・アンド・ビルドをやりとげたことになる。家康には、信長や秀吉の手本があったから一層世の中が見えただろう。その家康を単なる狡猾(こうかつ)な狸親父として見ることなく、中世社会に終止符をうち、江戸国家を成立させたことに注目したい。現代社会も家康に学ぶことはたくさんある。59歳の高齢にもかかわらず、関ヶ原の戦いに勝利した。その後、駿府に大御所時代を築いたときは66歳を超えていた。家康が本領を発揮するのは、この駿府大御所時代からである。