大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

まだある、家康公の魅力

家康に学ぶライフスタイル

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学問好きな家康公は、隣国の中国や朝鮮の歴史や学問は林羅山に学んだ。つまり国家を治めるためには、中国の孔子の思想である「四書五経」を学ぶことが道徳の根源であり、そのためには儒道官学を立て世の平安を樹立しようとした。一方世界情報と地理学・数学・天文学は、ヨーロッパ人のアダムズからも聞いて学んだ。こうして相当の知識を自分のものとしたのも、持前の耳学問という学び方を大切にした人物家康公のセンスに過ぎない。しかも集中して人々の話を聞くことから、一流の学者や文化人が永い歳月を経て学んだエッセンスを汲み取るという独特な学び方であった。

つまり知識人の蓄積した知識を利用して、それを政策に反映した。家康の周辺には、いつも天海僧正や金地院崇伝らがいた。そんな中で、戦地に於いても日本最初の銅活字印刷の出来具合を報告させていたのも家康公である。印刷やその他の文化の出発点も、実はこの駿府に実は全てのスタートが始まっていた。公家が所有する重要書籍を写本させ、また「貞観政要・吾妻鏡・六韜三略・周易・七書・大蔵一覧・群書冶要」などの書物の大切さも、今川義元の人質時代から臨済寺の雪斎和尚の影響から学んでいた。

大御所時代の家康公は、駿府城内に全国の諸宗派の僧侶を呼んで、それぞれ宗派の有るべき姿を宗派間の僧侶に論じさせた。これが有名な宗論という名のディベート合戦である。家康公は、その様子をじっと聞き入っていたのである。まさに耳学問の王様であり、人々が十年二十年掛かって達成した学問の極地を自らのものとしていたのである。

このように見ていくと、家康公の原点は実に今川人質時代に臨済寺において雪斎和尚から学んだことが、家康公と学問の出会いとして見られるものである。そうした学問の経験を活かした家康公は、林羅山を学導師範として孔子の教えである朱子学を徳川幕府の中に取り入れた。

家康公の没後には、林羅山の朱子学が昌平坂学問所においてその趣旨が脈々として林羅山以後の林家で受け継がれていった。その流れの中枢が、後の東京大学へと引き継がれていくことを忘れてはならない。言い換えると、人質時代の臨済寺での教育→大御所時代の林羅山による学問伝授→江戸幕府の昌平坂学問所〔林羅山の朱子学の継承〕→江戸幕府瓦解により、昌平坂学問所が静岡に移転し静岡学問所となり→明治五年の教育の中央集中により東京大学となる。これが家康公からはじまる大筋の学問の流れとして理解できるものである。

家康公は三方ヶ原の戦いを境として、生き方を大きく変えた。引き際は良く、決断も早い。それは基本的に歴史が好きであった家康公は、歴史から多くを学び自己にも厳しかったという。特に鎌倉幕府公式の記録「東鏡」は丹念に読んでいたことは有名である。

また「男をその気にさせる」といった、不思議な力と魅力が家康公には備わっていた様だ。それも多くを学んだ経験から、人を惹きつける魅力があったのも、事前に物事を調査しておく情報活動の実践的成果だったのだろう。

また外敵への備えに対しても、元寇の乱を理解していたことからも外国とは一定の距離を置くことも忘れていなかった。これも根底には鋭い歴史認識があったためであろう。朝鮮通信使を日本に向かいいれたのは、冷え切った隣国との環境を修正するための画期的外交努力である。朝鮮通信使こそ、日本開闢以来の国と国との本格的な国際外交の始まりであった。

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