家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて
駿府城下町の伝承から
- 茶町
- 馬場町
- 上魚町(かみんたな)と金座
- 本通
- 藤右衛門町(とうえもんまち)
- 浄慶町(じょうけいちょう)
- 上石町(かみごくちょう)・下石町(しもごくちょう)
- 大鋸町(おおがまち)
- 猿屋町
- 平屋町
- 下魚町(しもうおちょう)と宝台院
- 鍛冶町
- 七間町
- 人宿町
- 新通
- 車町
- 安西(あんざい)と稚児橋(ちごばし)(安西橋)
- 横内町
- 阿部川町
- 弥勒町
- 呉服町
- 両替町
- 梅屋町
- 伝馬町
- 新谷町
- 鷹匠町(たかじょうちょう)と一加番稲荷
- 横田町(よこたまち)(上・下)
- 鋳物師町(いものしちょう)
- 八幡小路町(やはたこうじまち)
- 華陽院(けよういん)門前町
- 江川町(えがわちょう)
- 札の辻町
- 千人塚(せんにんづか)と桔梗川(ききょうがわ)
- 草深町
- 安倍町
- 川辺村の天坪(てんつぼ)の清泉(せいせん)
- 駿府・水落(みずおち)の水路と水落の文左衛門
- 孫三稲荷と家康公
- 時の鐘・鐘撞堂跡(かねつきどうあと)
- 銀座
- 駿河小判
- 林道春(羅山)の住居があった場所(NHK静岡放送局の裏)
- 駿府城下の七不思議
- 駿府と周辺の名物
茶町(ちゃまち)
お茶を好んだ家康公は、駿府城下町の中に茶の取引を専門とする町(茶町)を誕生させた。このことからも、聖一国師の御茶の伝承のある安倍茶が、幅広く生産と販売が行われていたことがわかる。元禄元年(1688)井原西鶴の元禄好色草子の「色里三所世帯(いろさとみところせたい)」にも、安倍茶が江戸で売られていたことがわかる。茶町には安倍茶を商う問屋が集中し、寛永12年(1635)の駿府城の火災は、この町から出火した火が城に飛び火し、駿府城殿舎の多くを焼失した大事件となった。
馬場町(ばばんちょう)
地名の由来は、家康公が駿府在城のとき、浅間神社の宮ケ崎に続くこの辺りに馬場(乗馬の練習や馬術の競技場)があったことによる。またタイ(シャム)で活躍した山田長政の旧宅は、地内にあったとも伝えられている。著名な慶安事件の首謀者(由比正雪)も、「駿府秘章」によると宮ケ崎に住んでいたという。山田長政の銅像が浅間通りにある。
近くに住んでいたことのある林羅山は、「草賊記」に正雪を書いていることを考えると、二人が馬場町界隈で会っていたのかも知れない。
上魚町(かみんたな)と金座
この町の南側には金座が造られ、後藤庄三郎光次の宅地(2,932坪)が置かれていた。ここでは、有名な駿河小判座が慶長12年(1607)に開設された。ここでは慶長小判や慶長一分金が鋳造されていた。この駿河小判座(金座)は、後の慶長17年(1612)に江戸に移り、それが江戸の小判座(後に金座と改称)に統合された(その場所には日本銀行本店がある)。慶長小判は「江戸座・京座・駿河座」の3箇所に置かれ、「光次」の文字の位置がそれぞれの座で若干異なるという(「日銀静岡支店資料」より)。家康公の偉業は、全国で千差万別であった貨幣を統一(金・銀・銭)し、通貨としての役割を確立したことであった。
上魚町の北側には、駿府城を造営した大工の棟梁中井大和守正清もここに住んでいた。
本通(ほんとおり)
慶長14年(1609)の駿府町割によって、家康公は古い東海道の道筋であったこの通りを本通として、新たに新通(しんとおり)を作らせて東海道の道筋を変更した。つまりバイパスである。昔からの本通は、家康公の時代になると東海道からはずれ、新通が中心となった。地内には時宗の一華堂長善寺があり、家康公から寄進された茶釜がある。これは播磨(はりま)高砂「尾上の釜」(釣鐘)の形で、釜の正面に「播磨高砂」の文字がある。
伝承によると家康公のおばあさん(源応尼)が、毎月1度はこのお寺に来て茶をたてたという。
藤右衛門町(とうえもんまち)
七間町の横にあったことから、この町は横七間町とも呼ばれた。家康公と何らかの関わりのあった、藤右衛門という人物が居住していたためこの名前となったという。
浄慶町(じょうけいちょう)
慶長12年(1607)駿府城下町建設の時、松下浄慶は城の作事(建設工事)に参加していた。浄慶は駿府城内の二の丸の東御門を大勢の人足(にんそく)を使って、わずか10日間で完成させた。このことを家康公は大変喜び、浄慶に駿府城下町の中から土地と700石を与えた。こうした経緯から、松下浄慶の名前が付けられた町が誕生した。
東御門は、別名浄慶門とも呼んでいる。浄慶は常慶とも書く。またこの門の前には、後の紀州和歌山城主となった徳川頼宣の家臣(安藤帯刀)が、この門の前に居住していたことから、帯刀(たてわき)御門とも呼んでいた。
上石町(かみごくちょう)・下石町(しもごくちょう)
家康公の時代から米座があった。つまりお米の商売をする関係者が一町を形成したことから、この町を石町(こくちょう)という。穀物を売買する人々が住んで町を形成していたことによる。石町は、別名本石町とも呼ばれた。駿府城下町では上の名がつくと北、下は南を位置する。
大鋸町(おおがまち)
木挽(こびき)(木材を板などに加工する)を業とする職人が居住したことから大鋸町(おおがまち)という。大鋸とは大きな鋸(のこぎり)のことで、材木を鋸でひいたくずを大鋸屑(おがくず)と呼んだ。ここの職人は、駿府城などで使用する材木を製材する職人集団で、家康公が職人町として与えたものという。
この町には家康公の駿府大御所時代、了伝という50人力の力持ちがいた。門のかんぬきを振り回して、家康公をねらう軍勢をなぎ倒し手柄をたてたという了伝のために、家康公は西福寺を建立したという。
猿屋町(さるやちょう)
今川時代からの古い地名。このころから猿引が居住していたことから地名となる。猿まわしを業とする人々は、城中や諸家に呼ばれて猿舞を披露しながらお祓いをした。家康公が猿屋惣左衛門という者に土地を与えたことから、猿屋町として駿府城下町の一つに加わった。
平屋町(ひらやちょう)
この町には、もと平屋某という人が家康公から土地を拝領して住んだことから平屋町の地名の由来となった。
下魚町(しもうおちょう)と宝台院(ほうだいいん)
駿府城下町の魚や塩を扱う魚問屋があったため、塩屋町とも呼ばれた。駿府城下町には、上・下魚町が置かれた。下魚町の地内には、著名な宝台院がある。2代将軍秀忠公の生母(西郷局)の菩提寺で、昭和15年に静岡大火で焼失したが、それまでは江戸時代初期の寺院建築の傑作として国宝に指定されていた。
家康公の側室(西郷局)は、平素目を病んでいたため駿府の盲女を哀れみ、寺の西側に盲女屋敷を作って衣服や食料を与えていたという。家康公の出陣を励ました盲女の「勝鬨節(かちどきぶし)」で、喜んだ家康公も盲女を大切にしたという。宝台院はそうした西郷局のゆかりの地(盲女屋敷)の近くに局の没後に秀忠公によって創建された寺であった。駿府では盲女のことを「ごぜんのう」と呼んで町民も大切にしたという。
鍛冶町(かじまち)
天正年間(1573-91)の頃から、鍛冶職人が浜松から移り居住していたことから町名となる。地内の刀鍛冶藤原兼法(かねのり)(岡村助右衛門兼法)は、家康公に召し寄せられて駿府城下町に居住し、代々鍛冶(刀鍛冶)として活躍した。
宮ケ崎生れの由比正雪は、岡村弥右衛門の次男で武芸に通じていたというが、刀鍛冶の岡村助右衛門兼法とも面識があったという。
七間町
今川時代の駿府の豪商(友野氏)が友野座の七座の長として、この地に屋敷地を置き支配していた。このことが「七間(軒)」の由緒だという。慶長19年(1614)8月29日大蔵卿局は駿府に来たが、駿府城登城をはばかって七間町に寓居し某邸宅に阿茶局を招いて方向寺鐘銘の陳謝をしたことで有名(注:大蔵卿局は淀君の乳母)。友野は伴野とも書く。
人宿町(ひとやどちょう)
名前のように駿府城下町に誕生したこの町は、今川時代には「今宿」として旅人が宿泊する旅宿があって賑わっていた。諸大名の宿泊地としても栄えていたが、慶安事件(由比正雪事件)が起こると伝馬町に本陣・脇本陣が置かれ宿泊地としての機能を失った。この事件以後は、旅人が勝手に伝馬町以外に宿泊することが禁止された。隣接の梅屋町は、由比正雪事件が起きた現場である。(梅屋町参照)
新通(しんとおり)
慶長14年(1609)の駿府城下町の町割の時、家康公は本通に対して新通りを設けて東海道の往還としたことにはじまる。今日で言うバイパスにあたるものである。新通を東海道としたのは、駿府城天守閣が一番美しく見える通りであったからという。
新通は一丁目から七丁目まであり、一丁目(旅籠町)、二丁目(新通大工町)、三丁目-四丁目(馬喰町)、五丁目-六丁目(笠屋町)、七丁目(大鋸町)とも呼ばれていた。
車町(くるまちょう)
家康公が京都の鳥羽から4人、伏見から3人の牛飼いを呼んで宅地を与えたことが車町の始まりで、牛車(ぎっしゃ)を牽(ひ)いて荷物を運ぶ商いを渡世としていた。この牛車は彼らの特権で、駿府以外では許されていない。駿府の山車にもこの牛飼いたちが活躍し、牛に牽かせた浅間神社の廿日会祭は全国的にも有名だったという。
ところが牛の糞(ふん)が臭く、城内にも臭うため安西五丁目に移って牛車の商いを続けさせた。このため安西五丁目を、別名牛町(うしまち)と呼んだのはこのためである。地内の庚申(こうしん)堂(荒神堂)は、別当守源寺(しゅうげんじ)とも呼ばれて駿府町方の会所として利用されていた。駿府96ケ町の町頭たちが、このお堂に集まっては会議などに使用していたわけである。つまり駿府城下町は、当時珍しい自治が組織されていたのである。現在の町内会の事務所(集会所)の仕事をここでしていたのだ。一部の記録が、御用留として県立図書館に所蔵されている。
安西(あんざい)と稚児橋(ちごばし)(安西橋)
地内に「建穂口(たきょうぐち)」と呼ばれる場所があり、家康公は駿府大御所時代から建穂寺の稚児(ちご)を浅間神社に迎えて廿日会祭(廿日会祭は昔からあった)の重要な稚児行列(おねり)と稚児の舞を舞殿(ぶでん)で演じ、駿府を代表する春のお祭りとなった。この稚児の神事を浅間神社社殿で奉納するため、家康公は建穂寺学頭に7度半もお願いに参上し、ようやく許可されたという伝承がある。家康公はそのお礼のため、建穂寺から安倍川までの道を「稚児道」として寄贈し、破格の待遇で稚児と経穂寺の役僧(やくそう)(稚児さんと駿府に出向いた稚児担当の僧侶)をお迎えした。
建穂寺からの稚児と建穂寺の役僧を、駿府の町人たちは安倍川左岸の安西で到着を待ち構えて歓迎した。稚児一行が安倍川を川越しで到着した場所、そこが「建穂口」と呼ばれている(安西五丁目地内)。こうして浅間神社の廿日会祭は、武家と駿府町民が一体となってお祭りに参加した駿府最大の盛儀として行われていたのである。
また、「祭りはどこだ、安西五丁目(建穂口)・・・」といわれる程有名な祭りの合言葉が現在も語り継がれている。
横内町(よこうちちょう)
慶長のころ駿府城の周辺をとりまく武家屋敷に続く町で、町屋の部分を横内町といった。駿府城三の丸に通ずる門に「横内門」があり、家康公時代には横内にも横内町奉行が置かれ、駿府町奉行と二人役(ににんやく)であったが、元禄15年(1702)に廃止となった。
地内の来迎院(らいごういん)は慶長14年(1609)に創建され、家康公より献上されたと伝えられる南蛮屏風があるという。また地内には真勝寺という寺があり、その寺の傍らには家康公がお茶の水に使用したという名水が湧いていた井戸があったという。
地内の関根某氏は自家用の菅笠(すげがさ)を製造し、これが大変出来がよく評判となり、やがて技術を覚えた傘職人が新通六丁目で菅笠を製造して渡世としたことから、新通六丁目は別名笠屋町(かさやちょう)と呼ばれていた。
横内町は「横移(よこた)」とも呼ばれ、横内田町は南安東村の地内にあった。ある日、家康公が鷹狩りの途中、横内の民家で休息した時、民家の老婆がいろいろ世間話を家康公に物語った。横内田町も地内に含まれていた。ここは、横内町の端で、北安東にも接していた。家康公が、「何か望むものはないか」と聞くと、老婆は「朝夕家の前の道を牛車の音が喧しいので何とかして欲しい」と告げたという。そこで家康公は、この家の前を牛車が通行することを禁止したという。公害が取りざたされてひさしいが、家康公の裁許が見事である。
地内の英長寺は家康公の創建といわれ、和尚と家康公は囲碁を楽しんだ。家康公は囲碁がとても好きだったという。ところが囲碁をやっている間、冬は隙間風があり寒さを防ぐために、家康公は「南蛮屏風」をこの寺に寄贈したという。同じく地内の真勝寺の小路には、家康公が御茶の水に使用したという名水があり、名前は「三弥(さんや)井戸」と呼んでいた。
阿部川町(あべかわちょう)
慶長14年(1619)家康公は、京都伏見の遊女を駿府に移した。場所は川辺村の領分で、川原屋敷があった場所という。安倍川の川原の中にあったため、阿部川町の名前が付けられた。昔は上町・中町・旅籠町・新町・揚屋町の5町あった。
またこの近くにはキリシタン寺(教会)もあり、慶長17年(1612)のキリシタン信者の迫害もここで行われたという。元和2年(1616)家康公が没すると大名・旗本も駿府を引き揚げたため、阿部川町の遊郭も一時衰退した。そこで2町を残して3町を江戸に移転した。このため遊郭のことを、駿府では二丁町と呼んだという説もある。(ただし異説もある)
弥勒町(みろくちょう)
慶長年中に安倍川左岸の川原には、弥勒院(みろくいん)という名前の山伏が還俗(げんぞく)し開いた寺があったことに由来する地名という。弥勒院の山伏が、安倍川の河原で旅人に餅(もち)を売って渡世(とせい)(生活)としていたことから「安倍川餅」が誕生したという。
由比正雪の首は、この河原に曝(さら)されていた。その首は、遠縁にあたる女性が盗み出して寺町の菩提樹院に埋葬した。
呉服町(ごふくちょう)
今川時代から駿府には、友野与左衛門と名乗る商人頭(しょうにんがしら)が呉服座をはじめとして、駿府の町を統括していた。家康公も駿府城下町の町割(都市計画)では、友野氏が今川時代からの影響力を持って城下町再興の中心人物であったことから街造(まちづく)りに貢献させた。
このように、慶長の駿府城下町造りにも呉服を商う商人町として深く関与したことから呉服座の名前が踏襲され呉服町となった。家康公駿府在城の頃には、佐藤彦五郎も呉服の御用を営み、後に江戸小石川富坂に移った。
両替町(りょうがえちょう)
慶長11年(1606)に、家康公が京都伏見銀座を駿府に移し、同年12月に四丁目に駿府銀座が置かれ大黒常春が主管となった。座衆の宅地も同所に与えられた。二丁目には銀座役所を配置し、地内には金銀の両替屋があったことから両替町と呼んだ。慶長17年(1612)には、この銀座が江戸京橋に移されて、今日の東京の銀座が生まれた。
金座も銀座も慶長17年(1612)に江戸町割りの完成とともに江戸に移された(図録「日本の貨幣」三巻より)。
梅屋町(うめやちょう)
慶長のはじめ頃、梅屋勘兵衛という者が居住していたことから町名となったという。梅屋勘兵衛の祖先は、家康公と同じ三河の出身で、家康公の能の相手をしていた人物だった。慶安4年(1651)の由比正雪事件で知られる「慶安事件」はここで起こり、梅屋は旅籠として事件の舞台となった。
慶安事件は、江戸の同志の奥村権之丞(ごんのじょう)が疑われて陰謀を白状した。今度は駿府に向かった首謀者の、由比正雪逮捕の書状と人相書きが江戸から早馬で駿府に急報された。事件を知った駿府城代大久保忠成(ただなり)は、駿府町奉行に命じて駿府城下を徹底調査した結果、旅宿の梅屋で正雪を発見した。
正雪一行は、「我らは紀伊公の家来である」と時間稼ぎをし、その間に正雪一行は旅宿内で自害して果てた。時に正雪42歳。首は安倍川に曝された。
伝馬町(てんまちょう)
東海道53次の19番目の宿場として、ここに府中宿が置かれた。つまり伝馬町(上・下)である。往来する人物で賑わった、江戸時代の駿府の繁華街であった。特に寛永期に参勤交代の制度が確立すると、大名たちが宿泊する本陣や脇本陣と人馬の引継ぎでも賑わいを増した。ちなみに、駿府伝馬町(府中宿)の開設は、慶長6年(1601)からである。
地内には、江戸を無血開城に導いた「山岡鉄舟と西郷隆盛会見」の記念碑がある。駿府・静岡は、幕末・明治期においても日本をリードした歴史の舞台であった。
新谷町(しんがいちょう)
この町は慶長14年(1609)、駿府城が拡張されるため代替地として小梳(おぐし)神社神主新谷氏の宅地として与えられたことから、その神主の名前をとって新谷町となった。小梳神社もここに置かれたが、後に現在の紺屋町に延宝3年(1675)に移転し現在に至る。
地内の「くまたか橋」(くが鷹橋とも呼ぶ)は石橋で、家康公在城の頃に「くま鷹」という名前の鷹をここで飼育していたことから橋の名前となった。
鷹匠町(たかじょうちょう)と一加番稲荷
元々武家屋敷地であったこの町は、駿府96ヶ町には数えられていない。ここの町は、家康公に奉仕する鷹匠が居住する町として誕生したものである。鷹匠として家康公に尽くした伊部勘右衛門は老齢となったため、それまでの褒美として阿部川町の遊郭支配の特権を与えられたことで有名である。
鷹匠町の家康公ゆかりの場所としては、一加番稲荷を訪れて往時を偲んで欲しい。ここには、加番と呼ばれて駿府城を警護する武士の集団が住んでおり、貴重な屋敷絵図が岩手県盛岡市の盛岡市中央公民館で発見された。
横田町(よこたまち)(上・下)
駿府でも古い地名の一つで、横田の名は「和名抄(わみょうしょう)」にも登場する。このため駿府城下町建設にあたってこの地名が残されたもの。地内には駿府城下町に入るための東の入口、つまり「東見付」(横田見付とも)があって旅人の出入りを監視した。
鋳物師町(いものしちょう)
鋳物師が居住して家康公の御用の鋳物師として、この横田町の一部に細工場(作業場)を賜(たまわ)り仕事をしていたことからこの職名の地名となった。ところが火を使用するため、たびたび火災を発生させたことから、城下に被害をもたらすことを避けて庵原郡江尻宿へ換地をもらって移転した。鋳物師の山田六郎左衛門(代々世襲)は、優秀な鋳物師として鍋釜のほかに鉄砲や大砲に加えて鉄砲の玉の鋳造も請負った。各地に梵鐘が今日に至っても残されている。
中でも初代の鋳物師の山田六郎左衛門は、軍事品を造る軍中鍛冶役として家康公に従い小田原攻めや大阪の役にも従軍した。寛永11年(1634)に造営された浅間神社の作事の鋳物一式は、山田六郎左衛門が請負った。駿府周辺の寺院では、鋳物師の山田六郎左衛門の作品が現在でも増善寺などに残されている。
八幡小路町(やはたこうじまち)
八幡村に通じる久能街道に八幡小路町があった。地内の浄土宗円光院は、家康公が月見の席をはったことで知られる。また東海道を往来する旅人や無宿人など、駿府で死んだ無縁仏をこの寺に葬ったことから無縁寺とも呼ばれていた。
地内の珠賀美神社(たまがみじんじゃ)には、久能山東照宮の銘が彫られた石灯篭が2基あることからこんな伝承がある。それは地元の大力彦三郎が東照宮に参拝した時、神官から戯れに「そんなに力持ちなら、この2基の灯篭を駿府まで持っていけるなら進呈する」といわれ、彦三郎は太い丸太に縄で縛りつけ運んだところ、下八幡町の入口まで来ると、丸太が折れたためそこの珠賀美神社に奉納したという伝承がある。
花陽院門前町(けよういんもんぜんまち)
ここは横田領分であったが、家康公の祖母源応尼(げんのうに)の菩提寺(華陽院)ができたことから、花陽院門前町として一丁を形成した。花陽院は華陽院とも書く。祖母源応尼は家康公(幼名竹千代)が今川家に人質として天文20年(1551)駿府に送られると、孫である竹千代の身の回りの世話をするため、少将町に庵室を設けた。竹千代は肉親と離れ、寂しい生活を余儀なくされていたが、祖母源応尼の親身の愛情を注がれ心を和ませられたという。
源応尼は永禄3年(1560)5月6日に駿府で亡くなるが、その時に家康公は義元の上洛軍の先方隊として桶狭間に向かっていた。その直後に今川義元が桶狭間で戦死すると、家康公は戦場から自国の岡崎に帰国し、独立した戦国大名として自立した。このため敵国となった駿府に戻ることが出来ず、祖母の葬儀にも参加できなかった。葬儀は知源院で行われ、家康公は墓の傍らには三河松を植えさせたという。
慶長14年(1609)に家康公が、祖母のために一寺を建立し50回忌の法要を営み、法名を「華陽院殿玉桂慈仙大禅定尼」としたことから「華陽院」と寺の名前を改称した。「華陽院由緒書」によると、寺領30石、境内地4,300坪あったという。同由緒書には、住職知短上人からも家康公は人質時代に手習いの指導を受けていたとある。また、この寺は、朝鮮通信使の往来の折にも利用されていた。
江川町(えがわちょう)
伊豆の韮山(にらやま)代官を勤めた江川家の先祖が、大御所家康公に仕えてこの地に居住していたことから江川町の地名が生まれた。江川氏の家臣であった新庄家もここに住み、屋号は三階屋と呼んで、代々郷宿(ごうやど)(駿府周辺の百姓たちが宿泊する宿)を営んでいた。「駿河国新風土記」を著した新庄道雄はその末裔(まつえい)で、駿府では著名な文化人であった。今川時代には、この辺りには菖蒲(あやめ)の花が美しく咲き、富士山が特別に美しく見える場所であった。
このため今川家は、足利将軍が駿府の今川家を訪問した時には、この辺りに望嶽亭と呼ばれた迎賓館を建てて接待したという。
札ノ辻町(ふだのつじまち)
駿府町奉行所の高札が掲げられていた場所であったことから、札ノ辻の名前が町名となった。場所は七間町と呉服町が交差する四辻にあった。地内には駿府城御用達のお菓子屋をはじめ、古い江戸時代の由緒ある店があった。
地内の難波屋仁左衛門は、町口加番の本陣をつとめ、公私ともに駿府城内の諸役を命ぜられていた。著名な人物が駿府城に入る時には、この本陣で正装し威儀を正して駿府城大手門から入城し家康公に拝謁したという。またその順番を待って控えていた場所でもあった。
千人塚(せんにんづか)と桔梗川(ききょうがわ)
駿府城下町の西の見附(出入り口)の近くには、千人塚と桔梗川と呼ばれた跡があった。駿府大御所時代に、キリシタン信者の処刑が行われた場所という。ここでは、駿府の信徒ら千人余が捕えられ処刑された。その鮮血が流れて下流を暗紫色に染めたため、以来この川は桔梗川と呼ばれた。
事件は慶長17年(1612)駿府城で起こった岡本大八事件に端を発し、キリシタンの拡大を恐れた家康公は、駿府を信徒弾圧のモデルとして天領から大名領まで徹底した禁令を発した。事件の真相は、「日本キリシタン教会史」(オルファネール著)に詳しい。翌年の18年(1613)イギリス国王使節が、大御所家康公に拝謁するため駿府に来た時の記録「ジョンセーリス日本渡航記」にも、凄惨(せいさん)極まりない安倍川での迫害の様子の一部を記している。しかも彼は、その様子があまりにも残酷(ざんこく)であるためこれ以上文章に書き表せないとも記した。
草深町(くさぶかちょう)
はじめは上・下草深として区別していたが、現在は東・西と区別して呼ばれている。この町は慶長期の安倍川の大改修と流れの変化によって生まれた土地で、駿府城御定番衆、与力・同心の屋敷が集まり武家屋敷が集中していた。この地内から駿府城内に通じる門は、草深門と呼ばれ、武士が出入りしていた通用門であった。
また地内の一角には、家康公の儒者として知られた林羅山の屋敷があり、そこに至る道を彼の号(夕顔巷(ゆうがおちまた))にちなみ夕顔小路といった。
安倍町(あべちょう)
安倍奥(安倍口の奥地全体を呼んだ地名)の井川の殿様として知られた、安部大蔵元真(あべのおおくらもとざね)が駿府での居住地として家康公から与えられたことから、安部大蔵元真にちなんで「安倍町」と呼ばれ、50間四方の屋敷地に住んでいた。
安部大蔵元真は今川氏配下の武将であったが、今川氏が武田信玄に敗れると武田に属すことなく家康公に従ったことから優遇された。元真の婿養子となった海野弥兵衛は井川の郷士として家康公の巣鷹役や笹間金山や大日峠の御茶小屋の諸事にあたり、子孫も海野弥兵衛を襲名し安倍町の屋敷も使用していた。
川辺村の天坪(てんつぼ)の清泉(せいせん)
「なこりその記」によると、この村の利兵衛という者の屋敷の清泉から立派な名器が発見されたことから、お上に届けるとこれは立派な御茶壷であった。このため宇治に運ばれて、御茶壺に使用したという。またこの屋敷の清泉を汲んで、駿府城にお届けして家康公が御茶の水として使用したという。このことは「駿河国新風土記」にも記されている。
駿府・水落(みずおち)の水路と水落の文左衛門
伊豆修善寺の紙漉文左衛門は、慶長3年(1598)3月4日の日付で家康公から朱印状を与えられていた。良い修善寺和紙を作り出す名人であったためである。当時修善寺和紙は全国的に評判が良く、全国でも上等の和紙を生産していた。
家康公は紙漉文左衛門を駿府城下の水落に召し寄せ、紙漉きの実演をさせたところ、その出来ばえが気に入った。そこで文左衛門は城下に屋敷を賜ったうえ、「何なりと願いを叶えてやる」ということを記した書状を貰った。内容は「家康公使用の公方紙を漉くときは修善寺村の紙漉人は無論、隣村の立野村の紙漉人も協力すべし」という内容だったという。しかも原料は駿河原産地の富士山麓の三椏であったという(「江戸時代の清水市域」)。
ここでは駿府城の堀の水が横内川に流れ落ちるため、「水落」と呼ばれた。ここには水路が現存し、横内川と巴川を水路として駿府城本丸から清水港に通じていた水路があって、小船が往来していた。特に注目して欲しいのは、二の丸の水櫓門(みずやぐらもん)で全国的にも珍しい船の出入りする枡形の門である。
孫三(まごぞう)稲荷と家康公
天正14年(1590)家康公は、東海5ヶ国の行政府を駿府に置くこととなった。駿府を視察していたある日のこと、安倍川を家臣たちと越えようとしていたが川の流れが強く、どこをどのように渡ったら良いものか思案していた。すると何処からともなく、一人の男が現れて、家康公一行を無事に対岸まで案内した。名前を尋ねると、孫三と答えて再び川を越えて戻った。
後日家康公は、世話になった孫三を呼び出してお礼を言おうとした。ところが安倍川周辺を、いくら探しても孫三という人物は見当たらない。家臣の一人が、案内してもらった場所にお稲荷さんが祀ってあったので覗いてみると、何と「孫三稲荷」とあった。これはお稲荷さんの化身が、家康公をお助けしたに違いないと、以後大切に祀ったという。
天正18年(1590)家康公が関東に国替になると、安倍川周辺に住んでいた関係者は江戸の町造りのため集団で浅草界隈に入植して町をつくった。その名は阿部川町で、町の中心に孫三稲荷を建てて祀った。この町は江戸でも古い町の一つで、浅草発展のルーツになった町でもあったが、関東大震災後に町名が変わり、現在は台東区元浅草一丁目と二丁目がそれである。
町民は今も阿部川町の法被を着て、孫三稲荷のお祭を盛大に行っている。それに町民会館の名前も「阿部川町会館」、さらには、台東区の広報看板にも「阿部川町」の名前が生きていた。町内で著名な仏師大川さんは、名前を阿部川町に戻したいと話されていた。ところが静岡市では、ご本家の孫三稲荷はいつしかなくなり、場所すらもわからない。
時の鐘・鐘撞堂跡(かねつきどうあと)
駿府城下の両替町には、時の鐘と呼ばれる釣鐘(両替町三丁目北側)があった。この鐘を打ち鳴らすことで、城下に時刻を知らせていた。そもそもこの鐘が鋳造されるためには、次のような美談が残されている。それは3代将軍家光公が、駿府城下の町民に1万5,000石を与え、その残金を資金として家康公の遺徳を永く記念するために釣鐘を寛永12年(1635)鋳造した。
この鐘は正確な時刻を知らせる鐘として、遠州森町の鋳物師山田七郎左衛門と大谷村の鋳物師次左衛門がかかわっている。この時の鐘を鳴らして時刻を知らせることは、幕末まで続き家康公を偲んだものである(駿府広益)。その2代目が、葵区音羽町の清水寺に伝わっている。
銀座
駿府の銀座は慶長11年(1606)に、家康公が京都伏見銀座を駿府に移し、同年12月に四丁に駿府銀座が置かれ大黒常春が主管となった。ここには座衆の宅地も与えられ、二丁目に銀座役所が置かれた。地内には金銀の両替屋があったことから両替町と呼んだ。ところが慶長17年(1612)、駿府銀座は江戸京橋に移された。つまり今日の東京銀座が生まれた理由である。
駿河小判
家康公は駿府大御所時代に駿府に金座を設け、後藤庄三郎光次がその任にあたった。これが駿河小判である。表面には墨で「後藤」の2字が書かれていた。慶長12年には銀座が設けられるが、これも引き続き後藤が司った。ところが慶長17年(1612)に駿府の金座と銀座は、江戸に移され江戸の金座と銀座のルーツとなる。江戸金座のあった場所は、現在の東京都中央区日本橋にある日本銀行本店の場所である。
一方、駿府の銀座は今の両替町二丁目あたりである(「ふるさと静岡ミニガイド」)。
林道春(羅山)の住居があった場所(NHK静岡放送局の裏)
家康公の儒者(林羅山)は、家康公に招かれて慶長17年(1612)駿府に移り屋敷を賜った。場所は西草深である。羅山は家康公に講義したり、駿河文庫(家康公の図書館)を管理したり、また全国の貴重な図書を借り出しては書写して駿河文庫の蔵書とした。
羅山が住んでいた屋敷の路を「夕顔小路」と呼んだ。これは羅山の号「夕顔巷(せきがんこう)」に由来するものである。(草深町参照のこと)
駿府城下の七不思議
- 稲川(いながわがわ)田んぼの陰火(鬼火)
- 乳母(うば)ヶ池
- 明屋敷(あけやしき)の蛙の合戦
- 明屋敷の牛田(水道町)
- 梅屋町の四つ角のかわうそ
- 蚊トンボ
- 弥勒町(みろくちょう)十三仏の檜(ひのき)稲荷
駿府と周辺の名物
久能山の鏡餅・八幡名物棕櫚(椿の灰汁(あく)を使って餅をつき茅(かや)に包むと美味)・草薙村の沓形餅(草薙神社の名物)と筒粥(つつがゆ)(神前の大釜で粥を煮て竹筒に詰める)・中島村のシラス乾・国吉田村の梅の木饅頭(小豆餡(あずきあん)入り)・同村の長門酢(酢漬けの魚)別名「五目ずし」・丸子宿のとろろ汁これは別名「待兼汁」・宇津ノ谷村の冷素麺(ひやしそうめん)・同村の十団子(魔除の物とは別)・手越村の酒・久能浜の塩と畳表(たたみおもて)・駿府城下町(醤油(しょうゆ)、揚豆腐、納豆味噌、蒲鉾(かまぼこ)、半平(はんぺん)、桐油、安倍川餅、お茶、竹千筋細工、紙子(かみこ)(カッパのこと)、賤機焼、駿河漆器、駿河蒔絵、駿河指物、寄木細工、駿河凧(たこ)、駿河雛具(ひなぐ))・入江町の首人形いちろんさん・古庄村の兎餅(うさぎもち)・安東村の蛇餅(へびもち)(熊野神社の祭りで氏子に配る)・麻畑沼の鮒(ふな)と蓮根・建穂寺村の山椒(さんしょう)・興津宿の蕎麦、膏薬(こうやく)(貼り薬)、鯛(たい)・塩辛・蒲原宿の塩などがある。
(「駿河志料」「駿府風土記」などより参照)