大航海時代の駿府の家康公
家康の外交文書を作成したソテロ
家康の外交に関与したソテロに大きな仕事が待っていた。慶長14年スペインに帰国するはずのドン・ロドリゴの船が、上総国(千葉県)御宿で難破した。船を失ったスペイン人一行は、家康がアダムズに造船させた船で帰国することとなった。このとき家康がロドリゴに持参させた日本語とスペイン語の協定文の作成は、ソテロが行うことになった。ドン・ロドリゴは、ソテロが作成する文書はスペイン国王に有利なように作成させ、また家康の機嫌を損なうことのないように家康に見せる日本語を用意した。
ソテロは両者を意識し作文した。彼はその文書を伏見の教会で作成した。協定案文ができると、ソテロはそれを慶長15年1月21日に駿府城に持参し家康に見せている。あらかじめドン・ロドリゴと検討した協定文(八項目)は実に細目が多かった。内容は次のようなものである。
- スペインに関東の港を提供し、江戸に教会を建て宣教師の滞在を許可する
- スペイン船の安全と厚遇
- 安くスペインに食料を提供する
- マニラとメキシコの交易を開いたら、スペインの大使を駐留させ居館を与え、随員や司祭を保護し教会を提供し厚遇する
- 精錬技術者のことは、難しいが百名ないし二百名を可能かどうか国王に奏請する。しかし、スペインが発見した場合は半分はスペインの分け前とする
- キリスト教徒の鉱夫のために司祭を置いてミサを行うこと
- スペインと交誼を結ぶことは、世界最大の君主と結ぶことを意味する。そのため、オランダ人は追放すること
- 日本の港はことごとく測量する、またスペイン船に被害があったら厚遇すること
以上の条目を明記した書付三通をドン・ロドリゴに携帯させ、スペイン国王と協議した上で二年以内に家康に回答する条件であった。すべてはスペイン国王の決裁を要するとして、ドン・ロドリゴは慎重に対処した。
駿府城で、1609年12月20日伏見においてと原文はなっているが、これは駿府城の間違いである。ソテロの文章は駿府城で家康に提示されると、大御所の役人たちがこれを協議した。どのように最終的になったかわからないが、外交文書をソテロが再び伏見に持ち帰った。それは伏見の教会(ロス・アンヘレス教会)に居たフランシスコ会管区長アロンソ・ムーニョに再度協定文書を確認させ、スペイン語と日本語訳が偽りでないことを添書きしてもらうためである。
アロンソ・ムーニョも、このころソテロと同様に日本語に精通していた。そのため家康が、ソテロの訳文が正しいことをムーニョに確認させる手筈であった。ムーニョも大御所家康の周辺で外交事務に関わった一人である。ところが徳川家康がスペイン国王に宛てた協定文の日本語の原文は日本には伝わっていない。鎖国によって破棄されたのかもしれないが、幸いスペインに残るスペイン語の内容によると、スペイン国王宛ての内容はスペイン側に有利に書かれ、家康への内容は日本側に有利に書かれているという。中でもオランダ人の追放や国内の港湾測量などについてはスペイン国王に有利に書かれていた。
アロンソ・ムーニョはソテロの文書に間違いないことを家康に証明した。いい加減と言えばいい加減である。この外交文書は、ソテロ自身がフェリーペ三世国王の側近レルマ公に届ける予定であった。ところがドン・ロドリゴらがアダムズの船で帰国する際、突然ムーニョを帰国させた。実はドン・ロドリゴは敏腕で小ざかしく動くソテロを嫌っており、スペイン国王に彼を近づけたくなかったためらしい。
さて、出来上がった家康の外交文書は以下の通り(これは協定文ではなく国書である)。 「日本の天下人源家康は、スペインのレルマ公が本状を国王陛下に示されんことを乞う。前ルソン総督は、ヌエバ・エスパーニャの船が日本に来航する件を交渉したが、これは適切であると認められた。それ故日本の如何なる地にその船が到着してもこれを歓迎し、何らの危害も加えず、一切の恩恵と厚遇を与えられるであろう。その他の委細は使節であるこのフライ・ルイス・ソテロが取り扱うであろう。慶長十四年十二月二十八日」(家康のレルマ宛て外交文書より)。