大航海時代の駿府の家康公
外国人の大御所詣で - オランダ国王使節の来日まで
国王使節、駿府へ
駿府を舞台にはじまった日蘭の外交と貿易交渉が成立するには、リーフデ号の遭難(1600年)事件にまで話を戻さなければならない。オランダ船籍のリーフデ号は、悲惨な航海の末、豊後国臼杵の海岸(大分県)に漂着した。生存者は船長ヤコブ・クワケルナック、航海長アダムズ、乗員のサントフォールト、それにヤン・ヨースチンなど24名である。
クワケルナック、アダムズ、ヤン・ヨースチン等は、家康が彼らを日本に留め帰国を許されなかった。ところが5年後の1605年、クワケルナックとサントフォールトだけは帰国を許された。平戸城主の新造船で、彼らは東南アジアのパタニ経由で帰国した。帰国に際し家康は、日本がオランダと交易を希望していることを告げる親書を与えた。
4年後の1609年7月1日(慶長14年5月30日)、三隻のオランダ船が平戸に入港した。家康が待っていたオランダ国王使節の来日であった。この船には、リーフデ号の乗組員の一人、サントフォールトが通訳として乗船していた。オランダが、幕府公式の外交記録(「異国日記」)に記載されたのはこの時からである。
使節の中心人物は、アブラハム・ファン・デン・ブルックとニコラース・ポイクである。同年7月27日(和暦6月26日)、平戸を出発して駿府城に皇帝家康を訪問した。オランダ使節は、共和国連邦総督オランニェ公の親書と家康への献上の品を携えて駿府へ向かった。駿府城で締結された日蘭外交交渉によって、家康は正式に平戸にオランダ商館の設置を許した。
これがヨーロッパの国としては、日本がはじめて行った外交交渉の記念すべき第一歩である。ところが日本の記録には、その内容を詳しく記したものが少ないため、不正確な記述が後を絶たなかった。あるとすれば、ニコラース・ポイクが東インド会社に復命した記録が残されているはずであったが、それさえも行方不明であった。
ニコラース・ポイクの記録は、幸いドイツのカールスルーエのバーデン地方図書館に唯一写本として現存することがわかった。これこそ日蘭関係の間の空白を補う貴重な記録だ。正式名は、最初のオランダ遣日使節ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」と題するもので、オランダ国立中央文書館第一部長ルーロフス博士によって明らかとなり、東京大学史料編纂所海外史料部(当時)の金井圓教授らのグループが翻訳したものである。
ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」から
「駿府旅行記」の全文は、金井圓氏が「日蘭交渉史の研究」(思文閣)に紹介した。旅行記の書き出し部分だけ紹介したい。この前文から、大航海時代に家康が諸外国から注目されていたことが理解できる。 金井圓訳ニコラース・ポイクの「駿府旅行記」前文より
「一六〇九年(慶長十四年)ニフォン、すなわちJAPON(日本)の強大な皇帝(mogende keyser)のもとへの連合会社(generaele compe)の使節としてのロッテルダム出身のニコラース・ポイク氏(Sr.Nicolaes Puyck)により、マヨケ(Mayoque)の地方すなわちセルニガウオ(Sernigauo)の町へ向けて行われた旅行の記録(「駿府旅行記」」。
こうした書き出しで、一行は駿府城に徳川家康を訪問し、アダムズとも出会った。一行の目的は、駿府城の徳川家康に謁見することであり、江戸の将軍秀忠には拝謁していないところをみると、家康が絶大なる権力を持って日本を動かしていたことがわかり、またそれが「駿府大御所政治」の実態とも思える。
「駿府旅行記」の中では、大御所の外交顧問として活躍したアダムズのことが「スヒップ船の舵者」と呼ばれ登場する。ニコラースは、アダムズをこう述べた。
「その者(アダムズ)が、良い暮しをしている男であり、しかも皇帝のもとで大きな尊敬を得、かつ親密な関係にあるからである」(本文)と、アダムズに注目した。さらに、オランダ人が徳川家康との貿易を有利に運ぶためには、アダムズの関心を買う必要を述べている。そのためニコラースたちは、「この舵者を利用することを許されなくてはならない」などといいながらも、徳川家康や本多正純らは逆にアダムズに手綱をつけているためそれは難しいなどと言っている。
オランダ使節は、アダムズの心を捕らえることに腐心したようだ。そんなことからオランダ人たちは、駿府城内でもこれからはじめる商売よりも、アダムズ獲得に火花を散らしていたことが伺える。それだけアダムズは、家康とも近く、彼らが本格的に交易するためにもアダムズの協力を無視できなかったのである。
オランダが日本に使節を派遣したのは、家康がオランダとの交易を希望したためである。これを受けてオランダ国王オラニエ公は、特使アブラハム・フアン・デン・ブルックに親書を持たせ駿府城に家康を訪問した。しかし貿易が優先なのか、親書の交換が優先なのか、この点は今日の外交と違ってかなりルーズであった。政治と商売が渾然としていたためである。
貿易はニコラース・ポイクが担当し、アブラハムやジャックス・ベックなどは外交官のような形で駿府城に家康を訪問した。このためニコラース・ポイクは、アブラハムらのことはあまり記していない。とにかくヨーロッパの国とはじめての交渉は駿府城が舞台であった。無事に駿府城でアブラハムと家康の間で国書が交換されると、彼らは家康の外交文書を携えて帰国した。このとき家康がオランダ国王に贈った外交文書が、今でもハーグ国立公文書館に国宝の扱いで厳重に保存されている。
こうしてオランダは日本に商館を置くことになった。しかしオランダ商館は、最初の数年間は利益を得ることも少なく、また日本からの輸出品もさほど魅力ある物があるわけでもなかった。日本からの輸出品は銀や東南アジア向けの小麦や米、それに武器の類いも含まれていた。オランダが家康の許可を得ていたとしても、それ以前から日本に来ていたポルトガル人やスペイン人たちが、オランダ人の前に立ちはだかっていたためである。また中国人もオランダにとっては強力なライバルであった。そのためにも、なおさらアダムズを味方にしたいのは当然だ。
オランダ人たちは日本からの商品を考えた。それは既存の品物だけでなく、すでにある日本の商品に付加価値を付けることだった。そのために彼らは、日本の漆工芸品にヨーロッパ人好みの絵を描かせたり、蒔絵の図柄も工夫して日本の職人を巻き込んで商品開発をしていた。
その後日本が鎖国状態に入ると、逆にオランダ人はヨーロッパでも一番早く日本と正式に交易を締結した国であると主張し、先の家康の外交朱印状を振りかざし長崎の出島貿易の利権を獲得することができた。それは家康没後ではあったが、オランダにとっては大きな家康からの贈物となったわけである。この意味からも、ハーグ国立公文書館の家康文書が国宝として扱われている理由が理解できる。