大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて

駿府城下町の寺社

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宮ヶ崎町(みやがさきちょう)と報土寺(ほうどじ)

宮ヶ崎は慶長9年(1604)までは浅間神領であったが、家康公によって駿府城下町が出来ると浅間神社門前町として栄えた。地内の報土寺は家康公の命で、天正年間に現在の地に手越から移されたという。家康公が大御所として駿府城に入ると、慶長18年(1613)8月15日に父広忠公の50年忌の法要を報土寺で営んだ。法要の導師は江戸増上寺の観智(かんち)国師であり、法要の帰り家康公は近くに住んでいた天海僧正の寺(惣持院のことか?)を訪れている(「駿府政事録」)。天海僧正は分かっているだけでも、浅間神社周辺に2箇所の寺(惣持院(そうじいん)・玄陽院(げんよういん))を持っていたことが知られている。

瓦屋小路(かわらやこうじ)

宮ケ崎地内の報土寺の近くには、家康公の蹴鞠(けまり)の相手であった安田三右衛門(京都幾田神社神官)が居住していた。家康公の要請で度々駿府城に来ていた。その人物のために家康公は、火災を心配する老人のために火に強い土蔵造りの家を建てて与えたという。当時としては珍しい瓦葺であったため、その家に面する道を瓦屋小路と呼んでいた。

きらず飯と滝佐右衛門

宮ヶ崎には、山田長政と関係していた滝佐右衛門(たきさうえもん)と名乗る貿易商人がいた。この家も報土寺の檀家で、寺の近くの大きな家に住んでいた。ある日のこと、この家に家康公が立ち寄ると、丁度昼飯時で家族が真っ白なご飯を食べていたのを見つけ、「町人の分際で白米を喰うとは何たること」と家康公は機嫌が悪かったという。そこで滝佐右衛門は、「これは米の飯ではありません。おからでございます」と咄嗟(とっさ)に嘘をついた。

大御所様をだました自責の念にかられた滝佐右衛門は、以後死ぬまで白米は決して食べなかったという。

宝台院の家康公の念持佛・阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)

約1メートルあるこの阿弥陀佛は、家康公が岡崎の大樹寺の登誉上人から授けられ、大御所時代は駿府城内に安置した念持佛として知られる。それを孫の家光の誕生を祝い、自画像とともに西郷局の菩提寺宝台院に寄贈され今日に至る文化財となっている。この仏像は昭和15年の静岡大火で宝台院が焼失したとき、県庁の文化財担当の職員が駆け付け、光背と台座を外し火の中から持ち出したというものである。

感応寺(かんのうじ)

寺町の感応寺は日蓮宗身延山久遠寺の末寺で、紀州頼宣公の生母養珠院(ようしゅいん)が開基という。家康公は自ら寺の縄張りを決め、境内に池(瓢箪(ひょうたん)型)を掘らせ養珠院は魚を放生(ほうじょう)(供養のため生き物を放つこと)したという。寺には大御所家康公御成の間も造られ、養珠院より寄贈された釈迦如来や大黒天、その他多くの台所用品も贈られたという。

宝泰寺(ほうだいじ)

駿府城下町でも由緒の有る寺で、寺の創立は後醍醐天皇の時代といわれ、昔は七堂伽藍(しちどうがらん)(お寺の伽藍が全て整っていること)を備えた臨済宗の大寺であった。大御所時代には、朝鮮通信使の休憩所に利用され、来日した朝鮮通信使はこの寺を「綺麗第一(きれいだいいち)」と称し、異国情緒豊かな寺であった。寺にはキリシタン灯篭が2基ある(キリシタン灯籠参照)。

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