大御所の町・駿府城下町の誕生
駿府城下町の町割(都市計画)
こうして駿府城下町造りのレイアウトは決まった。次の作業が具体的な町割(都市計画)ということになる。この際に最も大きな作業として登場するのが、安倍川の大改修であった。駿府城下町は城の大手門を起点とし、特に南の方角に城下町を配置している。さらに町割りは碁盤目状に区割され、それぞれの区画の中には道路を挟んで複数の町を配置した。理由は後述するように、各町々が道路を挟んでいることで、自分たちの町を競って美しく保たせるためという。
駿府城下町では、そこに住む町人たちはそれぞれの職種に応じて大御所(家康公)に奉仕が義務付けられた。大御所家康公にとって必要な商工業集団が城下に集められ、城下町にスペースを与えられて商売を許される訳である。駿府城下町の中で、最も整然と区画された場所が大手門の前に開けた商工業者の居住区である。古地図を見ると、この辺りは美しく碁盤目状に区割が行われていることがわかる。
一方、駿府城の周辺には高級武士たちの武家屋敷が配置され、駿府城下町の外郭には寺社が設けられた。寺社は戦時体制の折、寺の境内など広い空間を利用して兵を駐屯させ、町や城を警護するための戦略的な配慮から郊外に配置されたものである。特に駿府城下町の寺町は、安倍川を越えて侵入する敵を食い止めるため、たくさんの寺院を寺町に集中させていた。
家康公は江戸から駿府に移ったとき、多くの臣僚たちを引き連れての駿府大移動である。家康の住むことになった駿府には、城や城下町を建設するために、京都や伏見などからも高度な技術者集団も同時に駿府に移した。つまり大工・鍛冶屋・車屋・左官などの名工が呼び寄せていた。
駿府城下町の完成は慶長14年ころ(1609)と伝えられているが、詳しく調べると慶長19年ころ(1614)と考えられる。つまり駿府九十六カ町の数を数えると、個々の町々の町名が大方出揃って来たのがこのころからである。慶長14年ころは、駿府城下町は未完成であったのかもしれない。
駿府城下町は、戦国時代もようやく終わり中世の城下町から近世の技法による新しい城下町として誕生した魁(さきがけ)である。しかも天下人家康公の町として誕生したものであり、士農工商が確立された江戸初期の最初の城下町であった。このことは、織田信長が安土城を築城したことと同様に大きな意味がある。しかも駿府城下町は、城と町が一体となって美しい街を出現させた。
とかく城下町というと、金沢・名古屋・岡山・広島・仙台・熊本などがイメージされるが、名古屋や江戸より駿府城下町はいち早く中世の色彩を払拭していた。次に駿府城下町の細部を具体的に見てみよう。