家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて
賤機から梅ケ島方面
瑞竜寺
徳川家康公の正室(旭姫)の菩提寺。天正14年(1586)5月、豊臣秀吉の妹で、佐治日向守の妻であった旭姫(45歳)を秀吉は無理やり離婚させ、浜松城にいた家康公に嫁がせた。家康公を味方にさせるためであったが、佐治日向守(さじひゅうがのかみ)はこのことに腹を立て自害した。
天正16年(1588)、旭姫は母が病気ということで京都に戻ったまま同18年(1590)聚楽第で没し、東福寺の塔頭である南明院に葬られた。後に家康公は瑞竜寺に墓を建立し菩提をとむらった。秀吉も天正18年(1590)小田原征伐の帰路、瑞竜寺の和尚を召出し旭姫の菩提のため寺領と膳椀を寄贈した。後の慶長4年(1599)には、十六羅漢や旭姫ゆかりの小袖などを寄進した。ここには、旭御前御物、御紋桐総縫小袖(ごもんきりふさぬいこそで)の打敷(うちしき)、切支丹灯籠(とうろう)や旭姫の墓がある。
井宮(いのみや)神社
井宮神社は元は妙見寺(みょうけんじ)と呼ばれ、建穂寺(たきょうじ)の末寺であった。昔から山の麓に安倍川の堰(せき)を作り用水とし、田畑に給水する水の神様を祀っていた場所である。元来この辺りは籠の鼻と呼ばれ、「上を籠上、下を籠下」と呼んでいた。家康公は籠の鼻に、三河から妙見菩薩を勧請しお堂を寄進し、自ら妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を信仰して朝夕礼拝し季節の供物をお供えしていたという。
慶長13年(1608)に家康公は、建穂寺学頭の快弁法印(かいべんほういん)に命じて開堂(お寺を開くこと)の式典を行わせ、その記録を一巻の巻物としてまとめさせたという。伝承によると、現在でもお堂の中には見事な葵の御紋で飾られた厨子(ずし)が納められているという。
松留(まつどめ)の貴庵寺(きあんじ)
貴庵寺は内牧結成寺(けっせいじ)の小寺で、本寺の知学和尚(元和3年没)は家康公のお話の相手をしていた学識のある僧侶であった。貴庵寺は、結成寺(けっせいじ)に戻るときに日が暮たり、安倍川の増水で往来に不自由をするとき滞在するための小庵であった。場所は安倍川左岸の松留あたりに建てられており、家康公から贈られたものであった。
鯨ケ池(くじらがいけ)
鯨ケ池は古くから名水の湧き出る池として有名であった。行基伝説から始まり、今川時代も徳川時代も名水の場所であったため、遠く駿府城まで御用水として引水していた。また大正天皇も皇太子時代、この池を訪れて周辺で鴨猟(かもりょう)をされた。
家康公は、こうした由緒ある鯨ケ池に、鷹狩りにきては名水をご覧になって、この水を駿府城まで御用水として取水することを命じたという。池の近くには御殿場と称し、家康公が狩の時に食事をした跡があり、また北方の山麓(第二東名)には名水を用いたという「昼井戸」の地名も家康公絡みである。
門屋(かどや)の御関屋跡(おせきやあと)
家康公の駿府城御在城の時には、安倍奥の金山が盛んに産金していた。このため、この村には安倍山に出入りする人馬荷物を調べる関所が置かれていた。
津渡野(つどの)城
家康公の駿府大御所時代に最も栄えた金山、それが安倍山といわれた梅ケ島の日影沢金山である。駿府金座で鋳造された小判は、ここで産出した金からも造られたという。日影沢金山跡地は、比較的良く保存されハイキングに最適である。また日影沢金山の山の中には、この土地でなくなった金堀人足のお墓がある。お墓の向きがそれぞれ違うのは、亡くなった人々の生国の方向に向けて墓石が設置されているためである。
梅ケ島金山の金堀人足の身分は高く、佐渡島金山の様に囚人を使用するやり方と大きく異なっていた。待遇も良く、金堀衆と呼ばれて彼らの特殊な土木技術が高く評価されていたため戦場にも出掛けていた。
梅ケ島の日影沢金山
家康公が駿府城にいたある日の朝だった、御殿の庭に妙な動物が現れたという。子供のような風体であるが、全身は肉の塊で奇怪この上なく、観ていた者はその姿形に驚きただ騒ぐだけであった。この事件が家康公の耳にも届き、近侍(きんじ)(そばで仕えている侍)が事情を述べ家康公に処置を訪ねた。すると家康公は、「その怪物を人の見ぬ場所に追い出せ」と言った。怪物は城外にから更に遠い山奥に追い払われたという。その後に、ある人物がこの話を聞いて残念そうに、「惜しいことをした。またとない仙薬を取り逃がした。それは白沢図に出てくる封(ふう)という獣に違いない。その肉を食べると力が出て丈夫になり、しかも武勇も優れる。殿様に差し上げぬまでも、公達や群臣(ぐんしん)に食べさせたかった」と、しきりに口惜しがったという(「駿河の伝説」)。
鯨ケ池からの長樋(ながどい)
静岡市葵区の北部に鯨ヶ池がある。昔から名水の湧出る池として知られ、今川時代からすでに駿府まで取水した長い樋の意味から有度(うど)の長樋(ながどい)と呼ばれていたという。家康公もお城の御用水はこの水を利用したという。駿府城の泉水(せんすい)にも取水し、「御用水」とよばれた。駿府城下町に取水した安倍川の水は、薩摩土手の3箇所から取水していたため「駿府用水」と呼んで、鯨ケ池の「御用水」とは区別していた。
有東木の山葵
駿河区中平の見城家には、慶長9年(1604)の古文書が残されている。その中の古文書には、朝鮮通信使の食材として山葵が提供された記述がある(「静岡市史近世資料Ⅱ」)。そもそも有東木の山葵は、伝承によると慶長年間から山里で自生していたものを、村人が湧き水で栽培したのが始まりという。
慶長17年(1612)7月に、大御所家康公に山葵を献上したところ、家康公は「天下一品」と褒めたたえたという。以後有東木の山葵は、この土地から一切持ち出すことを御法度とした。ところが延享元年(1744)、伊豆の住人がシイタケ栽培のため派遣された折、密かに山葵を弁当箱に忍ばせて伊豆に持ち帰った。こうした経緯で、伊豆でも山葵栽培が盛んになったという。