大航海時代の駿府の家康公
国際外交をリードした家康
15世紀の中頃、世界随一の実力を持ったスペインやポルトガルが、新世界へ向かって小さな船と限られた技術を駆使して、イベリア半島の先端から大海原に船出した。こうして地理上の発見が相次ぎ、大航海時代の幕が切って落とされた。その先駆けがコロンブスのアメリカ大陸の発見(1492)や、バスコ・ダ・ガマのインド航路の発見(1494 )である。
この大航海時代(Golden Age of Exploration)の波紋が日本に押し寄せたのは、コロンブスのアメリカ発見から半世紀後の天文12年(1543)である。このときポルトガル人は、日本の九州種子島に上陸して鉄砲を伝えた。徳川家康はその前年、三河で生まれたばかりであった。
種子島に鉄砲を伝えられると、刀を作る優秀な技術を持った日本人は、たちまち模造品を作り、鉄砲はたちまち国内に広がった。戦術も一変し、天正3年(1575)の織田・徳川連合軍が武田勝頼軍を愛知県の長篠(豊川の上流)で撃破したのも、鉄砲の威力だった。鉄砲伝来からわずかに32年後のことである。
鉄砲の次がキリスト教だ。フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは、天文18年(1549)、家康が7歳のときであり、大村純忠や大友義鎮ら九州地方の戦国大名たちが入信した。キリスト教も鉄砲と同様、すばやく日本全国に広まった。以後、日本人の物の考え方や行動も、新しい宗教によって大きく変わった。こうした環境で育った徳川家康は、やがて大航海時代の日本の主役となり、駿府大御所時代に多彩な外交を展開することになる。
幼少年期を今川家の人質として過ごした家康は、織田信長や豊臣秀吉が果たし得なかった天下統一を為し遂げ慶長8年(1603)に江戸幕府を樹立した。その2年後息子秀忠を二代将軍に据えた家康は、駿府を大御所としてから際立った国際外交を活発に開始した。この駿府時代から日本が本格的国際外交をはじめ、ヨーロッパやアジア諸地域を巻き込んで行った。駿府にはヨーロッパ、東南アジア諸地域、朝鮮などから多くの人物が去来し、駿府が重要な国際外交の舞台となった。
そんな駿府から、海外に雄飛した一人に山田長政もいた。山田長政はシャム国(現在のタイ)のソンタム国王に仕え、彼の活動はオランダ人のハンフリートの記録十七世紀に於ける「タイ国革命史話」にも詳しく記されている。一つだけ付け加えて置くと、山田長政がシャムの王様ソンタムに信頼され、軍事顧問となって軍隊を統率していたことは、駿府で徳川家康に仕えて外交顧問となったウイリアム・アダムズに酷似していることである。
家康の駿府大御所時代は、年数から言えばたかだか10年足らずであった。ところがその中身は極めて密度の濃い時代である。具体的にはオランダ・イギリス・スペインの各国王使節が駿府を訪れ、現代の国際外交活動のようにダイナミックであった。この時代(17世紀)の国際外交は、想像を越えたおとぎ話の世界にも匹敵してロマンに満ちている。前述したウイリアム・アダムズ(日本に初めて来たイギリス人)は、「ガリバー旅行記」のモデルともなっていた。