家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて
浅間神社とその周辺
浅間神社(せんげんじんじゃ)
浅間神社は多くの神様が祀られている神社で、主な神社は神部(かんべ)神社・浅間(あさま)神社・大歳祖(おおとしみおや)神社で、これらを総称して浅間神社(せんげんじんじゃ)と呼ばれ親しまれている。この神社と家康公の関わりは古い。家康公が今川家の人質時代には、この神社で元服式(げんぷくしき)(成人式)が行われた。浅間神社には、その時に家康公が使用した腹巻(はらまき)(静岡県文化財)が保存されている。武田信玄との戦争では、家康公は後日必ず社殿を再建する約束で自ら火を放ったが、天正期には約束どおり再建した。
5カ国の大名となった家康公は、天正14年(1586)9月11日浜松城から駿府に移ると、浅間神社の造営や臨済寺の再興を行った。現在静岡市文化財資料館には、当時の再建に尽くした家康公の朱印状が展示されている。また神社には、天正時代の伽藍配置の古絵図も残され、本社、拝殿、末社、神宮寺に至る神域の様子を知ることができる。
家康公の遺志を継いだ家光公は、莫大(ばくだい)な巨費を投入し立派な社殿を寄進したが火災で焼失した。現在の社殿は、安永の火災で焼失したため文化年間以後60年の歳月をかけて再建されたものである。総漆塗り(そううるしぬり)で極彩色の壮大な社殿は、江戸末期を代表する神社建築として全て国の重要文化財に指定されている。この神社は「お浅間さん」とよばれ、昔から大変市民に愛されていた神社である。
またこの浅間神社付近では、家康公から25石の朱印地と駿河古窯(こがま)「賤機焼」の称号を許されて太田七郎右衛門が御用窯(ごようがま)を創業した。これは「鬼福(おにふく)」という、それまでにない独特な意匠の面(顔)が有名である。このデザインは南蛮文化によって影響されたという説も有る。
玄陽院(げんよういん)
浅間神社の神宮寺(じんぐうじ)(神社に付属する寺)として、境内の中に玄陽院が明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(神社優先の思想)まであった。この寺は浅間の社僧寺で、天台宗であった。寺は家康公の御祈願所として、大御所時代は天海僧上がこの院(寺)に住んでおり、毎日ここから駿府城に通っていたという(「なこりその記」)。
浅間神社近くにはもう一つ惣持院(そうじいん)という寺があり、天海僧正はこの寺にも出入りしていた。この様に浅間神社神域にあった惣持院には、家康公を祀るための東照宮が建立され、家康公の木像をご神体として祀っていた。
浅間神社廿日会祭(はつかえさい)
浅間神社廿日会祭は、駿府静岡で四百年の伝統を持つ神事である。由来は大御所家康公が、建穂寺(たきょうじ)に参拝した折に見物した「稚児舞(ちごまい)」に感動し、浅間神社に奉納することになったことである。
また、家康公が浅間神社への花見見物として、大名・旗本を引き連れた故事に基づき、現在でも豪華な花見行列の再現が静岡まつりで行われ、春の大祭は大きなイベントとなっている。
摩利支天(まりしてん)堂
浅間神社の百段の階段を登る右にある社殿は、家康公の軍神(ぐんしん)(摩利支天)を祀った建物で、神社の建物の中では本殿と同様に美しく立派な建造物である。ここには摩利支天が祀られていたため、江戸時代までは摩利支天堂と呼ばれていた。
ところが明治の廃仏毀釈で、神社内の佛に関係するものは破棄(はき)された経緯がある。幸い本尊の摩利支天や仁王像などは、近くの臨済寺やその他の寺(清見寺や瑞竜寺など)に移籍され保存されている。摩利支天像と金印は臨済寺に現存するが、これは特別に家康公が大切にしていた摩利支天金印(5センチあまり)という見事なものである。
丸山の福田寺(ふくでんじ)の名月(現安西寺)
大岩村(葵区丸山町)の丸山に福田寺があった。家康公が鷹狩りのときに立ち寄って見ると、素晴らしい眺望の良い場所であるため御茶をここで楽しんだという。ある日、家臣の後藤庄三郎光次(みつつぐ)(金座役人)に、「向こうに見える山は何というか」と名前を尋ねた。すると、光次はかしこまって「南は八幡山、東に見えるのが清水山と愛宕山」などと答えると家康公は「ここは京の丸山(円山)の景色によく似ている」と云われたという。
そこで家康公は光次に命じ、京都の円山から徳陽軒(とくようけん)と云うお坊さんを呼び寄せ、ここにお寺を建てさせ地名を丸山と名付けた。その翌年の9月13日、再び鷹狩りに訪れた家康公がこの寺に寄ったら、十三夜の月が昇り始めていた。家康公はそこで、お寺の後ろの山麓に清らかなる清水が湧出ていることから、その日の美しい月夜を次の歌にして残している。
松高き丸山寺の流れの井 いくとせすめる秋の夜の月
この歌から山号を秋月山と呼ぶようになり、また鎮守(ちんじゅ)の弁財天は家康公の寄付したものという。(丸山町西谷祐一様談)。
現在安西寺は丸山地内にあるが、江戸時代は馬場町にあって今川時代から今川家に厚く保護されていた。当時の寺には、家康公寄贈の妹背石(いもせいし)と呼ばれた石がある。これは家康公から頂戴したものという。江戸時代の府中八勝景「天柱秋月」は、ここ福田寺のことである。
丸山の東照宮
浅間神社の境内にはお寺があった。これは浅間神社に付属していた社僧寺(神職と僧侶が同一のお寺)である。その中の一つ惣持院は、大御所時代に家康公に仕えた天海僧正が住んでいたという。その寺には美しい庭があり、山の麓(ふもと)には家康公が亡くなった後に東照宮が建立された。現在の東雲神社(とううんじんじゃ)である。
若宮(わかみや)八幡宮の大楠と志貴(しき)家
若宮八幡宮は、長谷通りを浅間神社石鳥居に向かって右側にある。この土地は社家(神部神社の社家・志貴家)の地の神様を祀っていた。境内には静岡市内でも、巨木として名の知れた巨大な楠木(くすのき)(静岡市天然記念物)が繁茂している。 伝え聞くところによると、家康公はこの樹の下で人質時代に遊んだという伝承がある。弘化2年(1845)の「駿河銘木番付」によると、東の小結の位置を占めている。現在の樹木は、目通し周囲10メートル、南北33メートルという。
長谷(はせ)の国分寺と大仏の首
静岡市葵区安東の静岡県立静岡高校の前に、長谷の国分寺と呼ばれる寺がある。永禄11年(1568)今川氏が武田信玄に敗れると、この寺も兵火に遭って焼失した。本尊の薬師如来は丈六(じょうろく)の銅製の大仏であったが、潰(つぶ)され首だけは池の中に投げ捨てられていた。後日その首を掘り出し本尊として崇めていた僧侶を知った家康公は悦び、慶長15年(1610)寺を再建させて覚雄(がくゆう)という僧に浅間神社の神職も兼任させて勤めさせたという。 明治になってこの寺が廃寺になると、音羽山清水寺に合併した。このため薬師如来の首は、現在は清水寺に安置されている。
閑話休題・駿府御薬園(すんぷおやくえん)
駿府御薬園も静岡県立静岡高校の前、つまり長谷の国分寺と呼ばれる寺と並んであったことから、安東の薬園と呼もばれていたことが「日本薬園史の研究」(清水中央図書館徳川文庫蔵)に記されている。明治期の調査によると、薬園の面積は4,200坪以上あり、北側には薬園の鎮守が祀られていた。 駿府薬園の起源は、家康公が駿府城御在城の時の木材として、御樹守(ごじゅもり)五郎左衛門に管理させていたというもの。寛永年間(1624-43)に廃絶したが、享保11年(1726)には種々の薬草木を栽培し、駿府御武具奉行が管理したという。「なこりその記」によると、安政4年(1857)までは老中が交代でこの薬園を守り、数多くの薬草が繁茂していたことがわかる。
臨済寺(りんざいじ)
今川家菩提寺で、家康公が今川家人質時代に出入りしたお寺。徳川との関わりは極めて深い。臨済寺開山雪斎禅師は、早くから家康公(当時は竹千代)の才能を見出していたことが京都妙心寺の記録(「妙心寺史」)に残されている。家康公は雪斎禅師に勉学を学び、武将としての経綸(けいりん)(大将としての倫理哲学の教え)の基礎をここで身に附けたという。臨済寺には家康公手習の間がある。
方丈(ほうじょう)と庭園
方丈は国の重要文化財で、家康が正親町(おおぎまち)天皇の勅命(ちょくめい)を受け、天正15年(1587)に建立された。静岡市内では清水区大内霊山寺仁王門に次いで古い。方丈の裏山の庭園は国の名勝。庭には家康公自ら御手接ぎの梅の古木「西湖梅(さいこうめ)」や「唐椿(とうつばき)」がある。
千鳥図屏風
この屏風は県指定文化財で、元和2年(1616)家康公が田中城で鯛のテンプラを食べて発病し、駿府城に帰って療養していた。その時に、見舞いの勅使が臨済寺に宿泊した時に使われた物という。