家康公の生涯
引退
慶長10年(1605)正月9日、家康は東海道周辺の諸大名を率き連れて上洛の途についた。目的は息子秀忠に将軍職を譲るためであった。2月19日に伏見城に入ると、早速、公家衆や諸大名たちを引見した。続いて秀忠が約1カ月遅れで伏見城に到着した。
家康の将軍職辞任と、新しく将軍職就任を朝廷に奏請(そうせい)したのが4月7日である。そして秀忠は伏見城において正式に朝廷からの宣旨(天皇のお言葉)を待った。朝廷より宣旨が下ったのは4月16日であり、こうして家康と秀忠の将軍職交代の儀式は滞りなく終了した。そして家康の地位は大御所となった。大御所とは将軍職を引退した人物のことであり、またその人物が住み着いた場所を呼ぶこともあり二様の意味を持つ言葉である。やがて家康が駿府に定住した時、駿府のことを大御所と呼んだのはこのためである。
わずか二年で将軍職を引退した裏には、家康にしてみれば早く徳川家の道筋をはっきりとつけて置きたかった理由があった。つまり徳川政権を世襲することを天下に明らかにすることである。このころの大名たちは、「天下は回りもの」として考えていた。家康が征夷大将軍となったのは成り行きであり、いずれは自分の番が回ってくると考えていた。したがって大名たちにしてみれば、「寝耳に水」として予期しなかった出来事に映ったことだろう。家康は、大名たちに先制攻撃を与えたことになる。
家康にとっては、秀忠を早く一人前の将軍にさせることが急務である。そのためにも政務に慣れさせ、権威を身に付けさせ、家康の目の黒い内に徳川の体制をより強固にする意図があった。家康もすでに63歳の高齢であることを考えると、時間的余裕があるわけでもない。できるだけ早く体制を固めるために、家康は第一線を退き(表向き)秀忠に政権を委譲。大御所という名目でしなければならないことがたくさんあったことを忘れてはならない。一方の秀忠は、江戸で将軍見習いのように帝王学を身に付けていた。
例えば大名たちを束縛することによって被官化させ、朝廷の権威を空洞化させ政治から無縁にし、寺社の勢力を押さえ込むことなど駿府政権の家康にはやるべきことが山積していた。こうした大仕事を大御所として自由な立場で推し進めることが家康の目的であった。一方の秀忠に対しては、自分が大御所として駿府政権を動かしながら、秀忠を将軍見習いとして徐々に権威を身に付けさせ教育することであった。
家康にしてみれば、秀忠に徳川家の名跡を継がせることには、頼りなさと不安を感じていた。すでに有能な息子たちは養子に出しており、今となっては取り返すことも出来ず秀忠を教育する以外にない。そんな秀忠について、家康の脳裏には関ヶ原の遅参や大坂城内で淀君に配慮のない不要な言葉を吐いたことなど、心配の種は幾つもあった。そのためにも秀忠を将軍見習いとさせ、家康が大御所として秀忠を後見する目的があったに違いない。また家康自身も、大御所という隠れ蓑によって自由な立場で徳川幕府の政局の舵取りができたのである。
秀忠を将軍にした後の家康は、しばらく伏見城に滞在しながら西国の大名たちを睥睨(へいげい)した。家康にとっては大坂方がどうしても気にかかる。大坂方とは大坂城の淀君や、豊臣秀頼と同心して天下を覆そうとする西国の諸大名たちの動静である。
家康公の生涯
慶長10年(1605)2月24日、秀忠は東国の諸大名十数万もの大軍を従え江戸を発ち、27日目の3月21日、京都の町中で貴賤の大群衆が見守る中を伏見城に入った。4月16日には、伏見城内で将軍の宣下を朝廷から受け二代将軍となった。まだ豊臣勢のショックが立ち直らない5月、追い打ちをかけるように家康は、豊臣秀頼に対し、秀吉の正室高台院を通じて秀忠将軍就任のために上洛するよう申し入れた。
当然これを聞いた淀君は激怒し、家康の申し入れを拒絶したため大坂方は蜂の巣をつついたように諸大名も騒然となり、巷では「また戦争が起こる」と大騒ぎとなった。荷造りをして逃げようとする人々の混乱の様子を「当代記」は、「五月七、八日ころ、大坂下民荷物を運送し、人の心相定まらず」と記している。
大坂方の動揺を鎮めるために家康は、七男の松平忠輝を将軍の名代として大坂城に挨拶に行かせ、これによって騒ぎは収まった。秀忠が将軍となったが、問題は家康の動向である。家康は伏見城にしばらく滞在して、自らの居所(大御所)をどこにするか物色していた。そして決定したのが駿府である。駿府に決まったことは、世間では今日の首都移転と同じく大きな関心事である。早速、駿府を大御所と決めた家康は、新しく駿府城と駿府城下町を整備して、大御所に・相応(ふさわ)しい計画を練り上げた。
家康が駿府を大御所の地として選んだ理由は、「廓山和尚供奉記」に次のように記されている。
「家康公が言っている。私(家康)が駿府を選んで住もうとするには、おおよそ五つの理由がある。
- 一つ、私が幼年の時この駿府に住んでいたので、おのずと故郷のように感じて、忘れることができない。幼年の時に見聞したことを、大人になった今になって見ると、なかなか愉快なこともあるものだ。
- 二つ、富士山が北の空に高くそびえ、左右に山脈が連なっているので、冬は暖かく老を養うにはもってこいの場所である。
- 三つ、お米の味が天下一品である。
- 四つ、南西に大井川と安倍川の激流があり、北東には箱根山と富士川の難所があり、要害としても堅固である。
- 五つ、幕府に参勤する大小名たちが、駿府に来て私に拝謁するのに便利である。少しも回り道をする苦労もない。また、この駿府の地は、地勢が開けており、景色がよく、富士を不死と思い、長寿を養うには好適の場所である。「廓山和尚供奉記」)。
この五つの条件が、私の老後の地を駿府に定めた理由である」(「駿府城関連史料調査報告書」〔静岡市教育委員会〕より)。