大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

まだある、家康公の魅力

家康公の離れ業~大坂に対抗した得意技~

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家康公の最大の夢は、戦国乱世を終わらせて、早く平和な世の中を築くことが大きな目標であった。そのために家康公が描いたプラン、それは先人の失敗や成功を学び、自分は失敗しないようにムリを避け、時には無駄で回り道をして安全な計画を立てていた。これを家康公は、「後発の有利性」という先人の行動を緻密に研究していた。

家康公は関西に遷都しようとしていた信長や秀吉の考え方と違って、鎌倉幕府の例に従って関東に行政府を置いて全国を支配した。それは古くから日本の政治に影響力を持っていた朝廷とそれを支える貴族の影響を避ける意味があった。つまり上方と一線を画することで、江戸政権は上方の政治と経済の強い力から距離を置く目論見であった。

具体的には上方の経済に対抗するため、全国の金山を直轄地とした。また貨幣では、金本位で慶長小判〔現在のコインと同じ使い方〕を通用させ関西の銀本位に対抗した。度量衡においても、上方の神氏に対抗させ今川時代に駿府で実績のあった吉川守隋を東日本方面に影響力を持たせ、徐々に上方を飲み込む秘策を練った。こうして経済面では関東を中心に消費文化を作り上げ、上方経済力を弱めたという。

朝鮮通信使も、秀吉の侵略を否定する平和国家のイメージ戦略が根底にあり、両国間の平和と安定と文化の交流を目指していた。この時の日朝関係は、日本最初の国と国との平和外交の魁としても意味深いものであった。

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