大御所の城「駿府城」とは?
閑話休題
東御門と巽櫓の中には、大御所時代の駿府城や駿府城下町の模型があるため、その時代を想像してみましよう。駿府城や天守それに駿府城下町の模型を見ながら、大御所時代の駿府の勉強をしてみましよう。
駿府城全体の模型
東御門の中には、静岡市が巨費を投じて製作した駿府城全体の模型があります。製作監修者は、城郭と御殿の研究で著名な平井聖先生によるもので、昔の駿府城全体が手に取るように俯瞰できますのでご覧下さい。
駿府城天守(汐見櫓と黄金の鯱)
またこの建物の中には、駿府城天守の現状で分かる限りの資料を精査して制作した天守閣の模型もあります。駿府城の天守閣は、別名「汐見櫓(しおみやぐら)」とも呼ばれていたように、天守の最上階〔七階〕からは見事な富士山や駿河湾が遠望できました。静岡市では2000年に小学生を対象に、静岡市消防災局のハシゴ車の協力を得て、天守の高さを体験してもらったことがあります。この時の実験の結果からも、駿河湾や富士山の眺望は見事でした。
駿府城天守は、日本国内で最初の金属瓦を使用した天守といわれています。また天守の重要な場所には金銀をふんだんに使用していたことも、これまでの調査で明らかになっています。昔のエピソード〔「史話・伝説・エピソード」を参照下さい〕によると、駿府城天守の黄金の鯱(しゃちほこ)が太陽で光り輝き、夜は夜でお月さんの光で反射し、駿河湾の魚が怖がって逃げるため漁師たちが漁が出来なくて困ったという面白い伝説も残されています。
大久保石見守長安(ながやす)(金山奉行)は、駿府城の天守造営に用いるため、黄金を30万枚も献じて家康公のご機嫌をとったと言われているため、駿府城天守は黄金で光輝いていたからこうしたエピソードが生まれたのかも知れません。
駿府城の天守は階層不一致
天守の外観は屋根が五層に見えるため、建物の中は五階建てと思いがちますが、内部は七階までありました。一階の屋根は瓦葺、二階以上は白鑞葺(しろめぶき)〔鉛と錫の合金で高価な金属瓦〕。最上層の屋根は銅瓦葺(どうがわらぶき)。軒瓦(のきがわら)は鍍金(めっき)(金メッキ)。
棟(むね)の両端は黄金のシャチが飾られていました。破風(はふ)は銅で葺(ふ)いていました。懸魚(げぎょ)は黄金の鍍金(めっき)を施していたことも、江戸時代初期の「当代記」という本に記録されています。駿府城天守閣は、豪華に飾り立てられた天守の初めてであり、また最後であったのです。この意味では、同じ大工の棟梁が建築した名古屋城にも当てはまりますが、成立はもちろん駿府城天守が先輩です。
「創業記考異(そうぎょうきこうい)」〔東京大学附属図書館蔵〕によると、駿府城天守のことが「この天守模様の事」と題し、次の様な記述が興味を引くので紹介します。エピソードにあるように、天守が黄金で光輝いていたことが分かります。
この天守模様の事
元の段 | 十間、十二間但し、七尺間、四方落縁(しほうおちえん)あり |
二の段 | 同十間、十二間、同間 四方欄干あり |
三の段 | 腰屋根瓦(こしやねがわら) 同十間、十二間、同間 |
四の段 | 八間、十間、同間、腰屋根・唐破風(とうはふ)・鬼板(おにいた) いずれも白鑞(しろめ)、掛魚(げぎょ)銀、鰭(ひれ)同、 逆輪(さかわ)同銀、釘隠(くぎかくし)同 |
五の段 | 六間、八間、腰屋根・唐破風・鬼板 何れも白鑞、逆輪(さかわ)、釘隠いずれも銀 |
六の段 | 五間、六間屋根、破風、鬼板白鑞、掛魚、鰭(ひれ)、逆輪、釘隠銀 物見の段 天井組入(てんじょうぐみいり) 屋根銅を以って葺くなり 軒瓦(のきがわら)鍍金、破風銅、掛魚銀、鰭銀 筋黄金、破風の逆輪銀、釘隠・鴟吻(しふん)黄金・熨斗板(のしいた)・逆輪黄金・鬼板黄金 |
〔「創業記考異」〕より
注記 落縁 | 雨戸の外にあって、座敷・縁より一段低く作ってある縁側 |
腰屋根 | 採光・換気などのため、屋根の上に軒をまたいで一段高く設けた屋根 |
唐破風 | 破風の一つで、曲線状に美しく演出。寺や神社の玄関の向拝屋根に見 られる形 |
千鳥破風 | 破風の一つで、曲線状でなく三角形の演出。 |
鬼板 | 箱棟などの端に取り付ける棟の飾り |
白鑞 | 錫に鉛を少し混ぜた合金の瓦 |
掛魚〔懸魚〕 | 屋根の破風に取り付けた装飾で、建築を美しく飾っている。 |
鰭 | 尾鰭の飾り |
逆輪 | 逆鰐口のことで、鰐の口を逆立ちした形に作った飾り物 |
釘隠 | 釘を打った跡を隠すための装飾金具 |
天井組入 | 天井を美しく飾ることで、一般的に格天井(ごうてんじょう)の意味で、それぞれ絵を描 くことが多い |
軒瓦 | 軒に張る瓦 |
鴟吻 | 沓形の飾り瓦で、魚の尾をかたどったもの |
熨斗板 | 平らに張った板張り、床・羽目・屋根裏などにも使う |
以上の記録からも、駿府城の天守には見事な装飾が施されていたことがわかります。 こうした記述は「創業記考異」の他にも、「慶長政治録」・「天守御注文〔故事類苑城郭下〕」 「慶長見聞書漏文」・「慶長見聞録案紙」等の古い古記録にも記載されております。
○駿府城御殿の設計者は誰か?
土木工事の設計〔普請奉行〕を行った小堀政一は、駿府城の功績で遠江守となり築城・造園の大家として名をあげました。また駿府城下町にも関与していたとも言われています。一方の駿府城の天守や御殿を建築した大工の棟梁〔作事(さくじ)奉行〕は、江戸時代初期の偉大な建築家として知られた中井正清でした。
中井正清も同様、家康公からその功績によって大和守を任ぜられました。彼は駿府城下町の上魚町(かみうおちょう)〔通称上店(かみんたな)〕に隣接していた金座の頭〔後藤正三郎〕と豪華な屋敷地を町の北側に拝領していました。特に後藤正三郎の屋敷の松は有名で、巨大な松の老木が駿河湾からも見えたと伝えられていました。
○本丸御殿の庭園
駿府城本丸御殿の紅葉山庭園には、武家のシンボルでもあった蘇鉄(そてつ)15本がありました。蛇形蘇鉄は13間もの長さで、まるで蛇が這うような大きな老古木だったそうです。この他にも紅葉山には、実割梅、早咲き椿、家康公お手植えの蜜柑もあります。蜜柑は静岡県の天然記念物として、昔あった場所にそのまま現存しています。詳しくは家康公の「史話・伝説・エピソード」をご覧下さい。