大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大航海時代の駿府の家康公

外国人の大御所詣で - イギリス国王使節、駿府へ

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ジョン・セーリスの来日

イギリス国王使節〔駿府城内で家康に謁見風景〕

イギリスから国王使節が初めて来日したのは慶長18年(1613)のことで、オランダ国王使節の来日から4年後のことである。イギリスとの通商交渉にも、ウィリアム・アダムズが深くかかわっていた。アダムズにしてみれば、オランダばかり支援していたわけではない。彼は自分の身の上に起こった出来事を書簡にまとめ、イギリスに送っていた。その手紙には、皇帝家康がイギリスとの貿易を望んでいることも書きイギリスが日本と交易することを薦めた。

アダムズの手紙は、イギリス国王使節ジョン・セーリスの手元に届くことになる。イギリスでは日本の皇帝のもとで活躍するアダムズの噂が広まり、アダムズの情報をいち速く受理したのがイギリスの東インド会社である。会社の幹部らは、アダムズの助言と応援に期待し日本との取り引きを開始することを決定し、使節を日本に派遣した(「日本に来た最初のイギリス人」)。

イギリス東インド会社艦隊司令官ジョン・セーリスは、国王ジェームズ一世から徳川家康にあてた書簡を持って来日した。日本出発に先立ちセーリスは、東インド会社の幹部から「日本到着後は、全力をあげて安全かつ貿易至便な港を探し出し、生地、鉛、鉄、ならびに、貴殿の視察上もっとも販売可能と思われる我が国の製品を売り込むべし」という特命を受けた。その中には、アダムズは大切な人物なので丁重に接し、帰国の意志があったら特等室を与えて必要な便宜を彼に提供するよう命ぜられていた。

セーリス自身もジャワ島のバンタムでアダムズの手紙を受け取った。書簡は1611年10月23日付で、アダムズが平戸からイギリス人にあてた長文の書簡と思われる。アダムズは日本から出帆する同僚の船舶には、機会あるごとに自分の書簡がイギリスに届くよう託していたと思われる。それが祖国に届き、ついにイギリス国王を動かしたことになる。

セーリスの率いたクローブ号は、こうした経緯から1613年6月12日、イギリス船としては初めて平戸に入港した。「アビラ・ヒロンの日本王国記」には、その時の様子を次のように記している。

「イギリス国王からは、昨年の1613年に、この王国(日本)の国王(家康)への使節を乗せたまことに美しい船が来航した」(「日本王国記」)。スペイン商人である彼にとって、イギリスは敵国である。そのイギリス船を、まことに美しい船が来航したと賛美していることは、明らかにイギリスが日の出の勢いで大航海時代に加わり、スペインやポルトガルに代わって台頭してきたことを暗示した言葉だった。

平戸に入港したセーリスは、平戸藩主松浦鎮信(しげのぶ)を船に招待した。松浦氏は、楽器を奏でる婦人たちを引き連れ、クローブ号に意気揚々と乗り込んで来たという。城主たちはワインやビールで大歓迎されると、約2時間あまり船内のパーティーを楽しんだ。セーリスの日記には、このことも細かく記されている。帰りがけに一行は土産を貰った。そのときセーリスは、イギリス国王の親書を松浦氏に見せようとしたが、松浦氏はアダムズが到着するまでそれを見ることを断った。

セーリスの見た東海道

「道は驚くほど平坦で、それが山に出会うところでは、通路が切り開いてある。この道は全国の主要道路で、大部分は砂か砂利の道である。それがリーグ(一里)に区分され、各リーグの終わりごとに路の両側に一つずつ丘があって、その丘の上には一本のみごとな松木が、東屋の形にまるく手入れをしてある。こんな目標が終わりまで道中に設けてある。それは貸馬車屋とか、貸馬をするものなどが人に不当の賃銭を払わせないためである。その賃銭は一リーグにつき約三ペンスである。街道は往来が非常に多く、いっぱいの人だ。所々、諸君は耕地や、田舎家や、村落や、また往々大都市や、淡水の河の渡し場や、多くのホトケサン、すなわち仏に出会う。これは彼らの殿堂で、小森の中やもっとも景色の良いところに位置し、全国の美観となるものである。そこを番する僧侶が住んでいるのは、昔このイギリスにおいて教団僧が居を占めていたのとほぼ同じである。(中略)この駿河の都市は、郊外いっさいを含んだロンドンの大きさほど十分ある。手工業者は都市の外部及び周辺に住んでいる。なぜならば、上流の者が都市の内部に住んで、職人にはぜひ付き物である、ガタガタの騒音に悩まされまいとするからである」(「セーリス日本渡航記」)。

ジェームズ一世の親書をめぐって

国王ジェームズ一世の親書を携えたジョン・セーリス一行が駿府に到着すると、皇帝徳川家康に献上品を持って謁見した。このときトラブルが発生した。セーリスは国王ジェームズ一世から預かった大切な書簡を、自分で皇帝に手渡すことを主張したからである。ところが日本の慣例ではそのような作法はない。アダムズも聞き入れなかった。結局イギリス人が秘書官と呼んだ本多正純が家康に手渡すことで落着した。これにはセーリスはかなり不満であった。

国王の書簡は当然英文である。これをアダムズが平仮名で日本語に訳し、それを金地院崇伝が見事な和漢混交の文体として家康に上覧させた。「金地院崇伝の異国日記」によると、セーリスの国書奉呈についてこう記されている。

「慶長一八年丑八月四日、インカラテイラ国王の使者、駿府城に於いて申し上げる。王より音信色々進上也。この国よりは初めての使者也。奉書臘紙、ハバ弐尺タテ一尺五寸、三方に縁に絵あり、三つ折、二つ折り返して、紙にて釘綴じのようにして、蝋印あり。文言は南蛮字にて、読まれず故、按針に仮名に書かせ候」。ジェームズ国王の親書の現物はイギリス大英博物館に現存している。もちろんそれは本物の写しである。

駿府城での語らい

駿府城で皇帝家康に拝謁すると、家康はアダムズやセーリスに質問を浴びせている。たとえば、「イギリス商館の設置場所はどこにするのか」についてアダムズは、「私は、種々談話の後、日本にイギリス商館を置く件について述べた。皇帝はそれはどこに置くのかとの質問があったので、それは皇帝の居城(駿府)または国王(秀忠将軍)の居城(江戸城)からあまり遠くない場所を考えていると答えると、皇帝は大いにそれを聞いて喜んだ」。

次に家康の関心事であった「北方航路」の探検のことに話がはずんだ。家康はこれがセーリス来日の本当の目的であろうと考えていたようである。アダムズは、イギリス国王は依然としてその航路発見のためにお金を費やすことは惜しんでいないと家康に伝えると、家康はその航路が存在すればそれは本当に短い航路で日本とイギリスは結ばれるのかと重ねて尋ねた。家康も夢中になり、世界地図を持って来させると、アダムズはその地図を使ってイギリスと日本の距離がはるかに短いことを説明した。家康は逆に、アダムズに対して「日本の北には蝦夷や松前の島があることを知っているか」と質問した。

アダムスの日本地図アダムズは、その地域(現北海道)についてはいかなる地図にも地球儀にも記述はないし、また見たこともない、しかし東インド会社がその探検を望むならば、船を派遣させ、名誉ある探検に参加できればうれしいと家康に説明した。家康は、もしアダムズが蝦夷や松前にでかける場合には、その土地には有力な家臣がいるので探検する前に30日間ばかりその土地の住民と友好を結び、その探検に協力をさせる考えのあることをアダムズに告げた。するとアダムズは、「私の想像では、ここは辺境の地であるので憶測としては、北方航路はさらに奥地に発見されるかも知れない」と夢のある返事をしている(「アダムズの書簡」より)。

イギリス国王への親書

ジョン・セーリスは家康から、正式に商館設置の許可と貿易を許す旨の特許状を受理した。アダムズの勧めもあって、それから一行は将軍秀忠に拝謁することになる。将軍秀忠の歓迎は大変なもので、セーリスはとても満足した模様であった。セーリスは商館設置の許可状を、将軍秀忠に拝謁する以前にすでに受理していた。ということは、家康がすべての采配を握っていたことがこの事実からも明らかである。江戸に将軍を訪問したのは9月19日のことであった。

イギリス国王への国書の押印は、家康の名によって発給されていた。このとき家康がイギリス国王に贈った国書は、現在イギリスのオックスフォード大学日本研究図書館に保存されている。

「日本国の源家康は、イガラテイラ(イギリス)の国王に謹んでご返事いたします。長く困難な海路を航海してきた船の使者からお便りを確かに受け取り、その文面から陛下の政府が正道を御守りになっていることと拝察いたしました。またさまざまなお土産も頂き、大変嬉しく思っております。我が国との友好を深め、お互いに商船を往来させようというご提案に賛成いたします。両国は、潮と雲により、何千里も隔てられていながら、実は密接な間柄になりました。我が国の産物をささやかながら別表のとおりお送りして、お礼の証としたいと思います。時節柄、お身体お大切に。慶長十八年(一六一三年十月四日)」(「日本に来た最初のイギリス人」より)。

歴史上の「日英交渉」は、こうして駿府を舞台に調印された。その功績は、一人アダムズに負うところが大きかった。

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