家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて
長田(おさだ)地区方面
用宗城(もちむねじょう)(持舟城(もちふねじょう))
通称城山と呼ばれるこの城は、今川氏水軍の城として関口氏広(うじひろ)が守ったが築城年代は不詳である。ところが武田に敗北した今川は、この城を手放し武田が領有すると、武田家臣の向井正重(まさしげ)が守った。後に武田が破れ徳川家康公が支配したが、天正10年(1582)に廃城となった。現在でも見晴らしの良い城山として市民に親しまれているが、周囲の地形は大きく変貌している。
マリア観音
持舟城の本丸山頂(城山)に観音堂がある。その観音堂の裏には、石に刻まれた観音像があり、地元の人々はマリア観音と呼んで懇(ねんご)ろにお祭りした。マリア観音と呼ばれる所以(ゆえん)、それは持舟城主の向井伊賀守正重の弟の正興が、キリシタンの美しい娘に恋をして妻に迎えた。その妻をモデルにしてマリア観音像を刻んだものという伝承が伝えられている。ところが武田側の兵士であった正重と正興の兄弟は、天正7年(1579)に徳川軍に攻められて討死したという。その跡に残されたのがマリア観音である。
川原(かわはら)神社
慶長年間の川原には十軒村(戸数十戸余り有り)があり、その集落は元屋敷とも呼ばれた。家康公は鷹狩の時にこの神社の名前を川原神社と呼ばせ、京都北野天満宮(きたのてんまんぐう)を勧請させたという(静岡市社会科郷土学習指導資料)。
御茶屋敷
用宗(もちむね)の古城近くには、むかし御茶屋敷があった。伝え聞くところによると、ここには家康公が鷹狩りのときに海岸道を通るため、新助という人物の家を御休憩所(ごきゅうけいじょ)として利用したためこの名前が伝えられていたという。
駒繋(こまつな)ぎの松
石部(せきべ)の村民に作左衛門という者がおり、この者の庭には駒繋ぎの松があった。家康公が付近に来たときには、この松の木に御馬を繋(つな)がせたことから呼ばれた。また家康公は、この場所を港と定め、世話をしてくれた新助の家に次の文書を与えた。
定
一 大御所様、山西恩鷹狩野御成の時節、
為御案内被仰付
広野の味知家舳乗候條、
為石部湊干今以後御道具諸荷物積送之宰配可致者也
慶長十四年酉二月
林 隼 人 花押
八郎右衛門
(内容)1609年の古文書で、家康公が山西(現在の焼津方面)に鷹狩りのときに、広野の味知家が舟を出しお手伝いしたことから、石部港において今後道具や荷物の積送りの采配を許可したもの(「なこりその記」)。
広野の味知(みち)家由緒
家康公が広野村(駿河区)へ鷹狩りに出掛けた際、昼食を家臣の家から献上された。この弁当がとても美味しいので、その屋敷に立ち寄ったところ、その家の庭に一本の大きな柿の木があった。食通の家康公は、その柿を食したところとても美味しかったという。そこで家康公は、昼食も美味しいし、柿も美味しかったため「この家の姓は今後“味知”と名乗れ」と言われ今日に至っている。味知家に伝わるこの柿は、以後毎年9月17日に久能山に献上する慣わしとなった。
この他にも味知家にはこんな話も伝わっている。それは家康公が今川氏の人質時代に、岡崎に父の墓参をしたいと思っていた。そのときに持舟の湊まで密かに道案内をした人物が「道」という姓だった。この「道」が「味知」となったという説もある。この伝承は増善寺の項を参照、同様な話が残っている(「なこりその記」)。
誓願寺
秀吉の死の直前のことである。秀吉は枕元に重臣(じゅうしん)一同を集め、6歳の息子秀頼が元服(げんぷく)するまで面倒を五大老が責任を持ってみることを血判(けっぱん)し約束させた。この時豊臣家は片桐且元を豊臣側の政務担当とし、秀頼に代わって豊臣家の全権を掌握させた。やがて家康公の権力が日と共に名声を博すと、時の天皇御陽成院(ごようぜいいん)は家康公を内大臣に任じて正二位を贈った。
世間では「桐の葉が落ち、葵は栄、松に緑の花が咲く・・」と唄われるほど徳川の威信が増していった。慶長12年(1607)秀頼(ひでより)が15歳となると大坂方は使者を駿府に送り、誓詞のとおり政権返上を申し入れた。ところが家康公は、「天下は一人の天下ではない、天下の天下であるから甚だしき失態の無い限りこの家康が護って行く・・」つまり家康公は豊臣を滅亡させる口実をここ駿府で探っていたのである。
家康公は大坂に所司代板倉周防守(すおうのかみ)を置き、大坂方の情報を探らせていた。まず大坂方の軍資金を少なくする策として、1.紀州那智山の造営 2.京都に天台宗方広寺再建 3.方広寺大仏殿の再建の3つを命じた。事件は大仏殿の事柄、つまり方向寺鐘銘の「国家安康」の文字をめぐっての事件である。
釈明のため片桐且元が駿府に下向するが、家康公の術中に嵌(はま)り、抜き差しならない状況となると、逆に片桐が徳川に寝返ったという風評が大坂で広まり淀君と秀頼の立腹を招くこととなった。豊臣は大蔵の局を駿府に下向させ、家康公の側室(阿茶の局)と交渉した。家康公の巧みな豊臣滅亡の仕掛け(外交戦術)は、驚きの一語に尽きる熾烈(しれつ)な展開となった。片桐且元は駿府に入ることが許されず、大鈩(おおだたら)の誓願寺に逼塞(ひっそく)し家康公の下知を待ったが、安藤帯刀よりの大御所からの申し条は、
- 秀頼を江戸に参勤させる事
- 淀君を江戸へ隠退させる事
- 大坂城を明け渡す事
徳願寺
片桐且元は慶長19年(1614)、有名な京都の方広寺の鐘銘事件のとき、豊臣の使者として大阪から弁明のために家康公に会いに来た。ところが遠慮して、片桐且元は直ちに駿府城に入らないでこの寺で待機し、家康公からの指示を待ったという話が伝わっている。
ところがこの寺は駿府城を見下ろす高い位置にあるため、片桐且元はここには宿泊しなかったという伝承もある(「静岡の史話と伝説」)。
逆川の切石
この地区には慶長年間(1596-1614)に駿府城の城石を切り出した場所があり、逆川の切石という(駿国雑志)。
宇津ノ谷(うつのや)のお羽織屋
家康公との関わりは、この尾羽織を見物に来た家康公も、この家に記念に「茶碗」を寄贈したものが保存されているという。