大航海時代の駿府の家康公
皇帝と呼ばれた駿府の家康
家康は、将軍職を退いて駿府城に移った。単なる「隠居生活」をしていたと考えたらそれは大きな誤解である。それは、徳川幕府の実力と威信を世間に見せつけるための「幕府の作戦」であった。家康は駿府城を舞台として、徳川幕府の延命作戦を練り実行した。強力な頭脳集団(シンクタンク)と、具体的作戦を実行する行動集団(ドウタンク)からなる強力な「大御所スタッフ」を配置して任務を忠実に遂行させたのである。
諸外国の使節から皇帝と呼ばれた大御所家康を、「隠居」と見ていた外国人は一人もいない。むしろ駿府城で睨みをきかせ、二代将軍秀忠よりも強い権力を持ちながら諸大名や公家をも統制下に置いた。こうした駿府の家康を、諸外国の使節や宣教師それに商人たちは「皇帝・日本皇帝・日本国王・内府様(だいふさま)・大御所・閣下・大皇帝・殿下・上様・天下殿・日本国大君・将軍・大将軍・国王・大王」などと様々に呼んでいる。家康の言動は国内ばかりか、国外に対しても影響を与えた。家康の国際的外交の広がりは、ヨーロッパや東南アジア諸地域に加え、太平洋の彼方のメキシコにまで広がっていた。「駿府大御所時代」の出来事やその実態は、残念ながら現在の私たちの住む静岡の街角からはとても実感として伝わってこない。しかし、ひとたび海外の古記録や宣教師の古記録に目をやると、想像を絶する大きなスケールで大御所時代が光り輝いているから不思議である。