家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて
由比・蒲原方面
蒲原(かんばら)御殿
清水区蒲原地区の北西部に蒲原城がある。家康公は武田勝頼の治めるこの城を織田信長の連合軍と、天正3年(1575)の長篠の戦いの余勢をかって勝ち取った。その後家康公は、此の地に御殿を造営したことが「駿国雑志」に記されている。「駿国雑志」によると、家康公は天正14年(1586)から御殿の造営をはじめ、立派な茶屋(蒲原御茶屋)を造らせ、織田信長に長年お世話になったお礼として招待するために造営したという。この年に武田が滅びると、駿河は全て家康公の領地となったのである。
この御殿に招待された信長は、富士川を越えて蒲原に至る途中の浮島ヶ原と愛鷹山の景色を右手に見て、富士川を渉りこの御殿において家康公から酒肴で接待されたのである。その饗応振りは前例が無いほど豪華であったという。「蒲原町史」によると、次のように記されている。 「この蒲原御殿は山城に対して平城であり、役使接見、招待の御殿として、天正10年(1582)家康蒲原入城の折、急遽建築されたもので、武田方小芝城(江尻城)主穴山梅雪降参の礼として神原城(蒲原城)にいたり、家康に謁見、直宗の太刀と折紙、鷹一羽、馬一頭を献上。家康これに応えて刀一振、銃百挺を与えた」とある。しかしこれは山城の蒲原城の間違いではなかろうかとしている。
家康公は同年4月13日、信長の浮島ヶ原御覧が予定されていたため、これに間に合わせるために造営されたのが蒲原御殿であるという。この時の信長の様子を、蒲原町史はまた次のように記している。
「信長は富士郡大宮を出て、富士川を越えて蒲原に到着。家康大宮まで出迎え対面。浮島ヶ原を御覧、足高山を弓手に見て富士川を渡り、御茶屋に酒肴を用意したので信長馬を止めて少時休憩の間、蒲原の地の故事を暗んずる者を召して、郷土の名所旧蹟を尋ね、吹上の六本松、和歌宮等の故事伝説には、特に興味深げに耳を傾けた。伊豆妻良崎を指し、高国寺三枚橋かてうめう(沼津宿より3里(12キロ)許り山中に入った所)天神河原深津の城を尋ねたとある」(「蒲原町史」)。
天正18年(1590)の小田原征伐の折に、豊臣秀吉も立ち寄ったという。その後の慶長17年(1612)3月16日、2代将軍秀忠公も蒲原御殿で休息し昼食をとったという。2代将軍秀忠公はこの御殿に泊まった。ところが3代将軍からは、将軍の宿泊もなく次第に衰退し廃絶した。元禄12年(1699)の大津波で蒲原宿が流出するまでは、旧蒲原宿は堀川、古屋敷方面を中心として宿を形成していたことが、元禄12年(1699)の「東海道分間絵図」によって昔の蒲原宿を見ることができる。
ところが元禄12年(1699)の富士川の大洪水で被害を受けると、蒲原宿が蒲原御殿跡地一帯に移転したことから、蒲原宿もこの時点で場所も一新した。御殿のあった付近を「本本陣(もとほんじん)」として標柱が立てられている。相当この御殿は世間に知られていたため、井原西鶴の「好色旅日記」にも名前が登場する。御殿のあった地所は、地元民に下げ渡された。蒲原御殿跡は、現在の本町の若宮神社周辺とみられている。その跡地に井戸を掘った時、石積や松の丸太などが地下2メートル余りの所から発見されたという(「静岡県史話と伝説中部編」)。
地内には御殿通りや表御殿跡などの地名が伝承している。
由比本陣と家康公お手植えの松写真
由比宿本陣(東海道広重美術館)に「松榧園(しょうかえん)」と呼ばれる庭がある。ここには家康公お手植えの松や、馬つなぎの榧(かや)の木があったことに由来する。この由緒を大切にした山岡鉄舟が、「松榧園」と命名したものである。また本陣の北川の庭は、小堀遠州の作といわれている。当時の石組などを修復しながら再整備され、小振りとはいえ遠州好みの趣きがある。
本陣の前には家康公の遺金を奪って幕府転覆を企てようとした由比正雪(ゆいしょうせつ)(1605-51)の生家の紺屋「鹿島屋」があり、江戸時代の紺屋の趣を今に伝えている。
注記: 由比宿の中央にある間口33間、広さ1,300坪の広大な屋跡が江戸時代の由比宿の本陣跡である。由比城主であった由比助四郎光教が、桶狭間の合戦で主君今川義元に殉じて討死したが、子孫の権蔵光広が帰農しこの屋敷に住んだ。代々岩辺郷衛門を襲名し、江戸時代は本陣職・問屋職をつとめ、近郷きっての名家として大名的な存在であったという(由比町紹介のネットより)。
林香寺(りんこうじ)の山椒(さんしょう)と家康公
家康公は関ヶ原の戦いで西軍を破り、慶長8年(1603)に江戸幕府を樹立した。こうして天下泰平の基礎を作り、同12年(1607)には駿府城を造り大御所として天下に采配(さいはい)を下していた。そんな家康公は、鷹狩りの時に由比方面に出掛けるために北田という場所に御殿を建てて泊まりがけで鷹狩りを楽しんだ。
この御殿は井原西鶴が元禄年間江戸へ下り、東海道由比宿を通過した時に「和瀬川を渡りて、右に塩焼き、左に御殿、船ヶ島」と詠ったように家康公ゆかりの御殿が登場した。さてそんな御殿を宿舎として家康公は、由比の山中での鷹狩りを楽しみ狩には由比宿の権蔵光広を伴った。1日中狩をして、暮七ツ(4時)頃に野田・鷹宿・高山を経て、山田から平へ下ると、そこに小さな庵があった。その辺りは地元で東山寺と呼んだ小さな村だった。
庵は林香寺という臨済宗の寺で、「ここで一休みしよう」ということになった。一同は下馬し、馬の世話をしていた。すると涼をとっていた家康公は、「冷水を1杯所望(しょもう)じゃ」といったので、お供の格さんが庵に駆け込んで住職の天輪(てんりん)和尚に告げた。すると和尚は、大きな器になみなみと冷水を湛えて家康公の御前に捧げた。家康公が器を手にとっていざ飲もうとすると、水の上に何か小さな葉が浮いており、何とも云えぬ香ばしい匂いがした。
家康公は、控えていた和尚に、 「これは何という草の葉じゃ」と尋ねると、 「ハイ、山椒と申しまして、昔、開山禅師が唐に渡った際、蜀という国の西湖から携えて来たものを撒いて得たものでござります」、と云うと家康公は、 「これは珍しいものによって、毎年屋形へも1つ納め、また江戸へも届けて味わせたいものじゃ」 「ハイ、畏まりました。宿のお役人様へおはかりしてお納めいたします」と言うと、家康公は矢立求めて、サラサラと何かを書いて和尚に渡した。それの紙には、牛沢から妙沢までの13石1斗余りの知行地、山林竹木の諸役免除の朱印状(寺領安堵状)を与えてくれたという。寺では山椒の縁で、家康公から寺領を与えたのである。この話は林香寺の物語として語られ、また「静岡県史話と伝説・中部編」に記されている。