大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

付録

駿府城の現状

大 中 小

天正14年(1586)12月4日に、徳川家康は17年間住み慣れた浜松城を去って駿府に移って来た。この時の様子を「東照宮御実紀」によると、今川氏が滅亡して焼失した駿府の焼け跡に新しい駿府の街と城を造り、5カ国の本府(首都)としたことが記されている。家康は、駿府に来る1年前から、ここに新しい城を築城する考えを持っていたことが、家康の家臣である松平家忠の記録(「家忠日記」)から知ることができる。

こうして、家康は浜松城から天正14年に駿府に移り、ここに立派な天守閣を備えた「駿府城」を築城したのが、近世初頭における駿府城の始まりといえる。当然、戦国期に駿河の国主であった今川義元も駿府に城を構えていたが、これは「今川館」と称されるもので、「城」に相当するものであるが、家康が天正期に完成させた「駿府城」と区別されなければならない。

「今川館」も文献の上では、「駿府城・府中城」とも呼ばれていたが、これは戦国大名今川氏が居住する「館」といったほうが正しい。「館」といっても、当然、戦闘に必要な山城を館の近所に配置し、そこを詰め城とした「賤機山城」が、それである。今川氏の館は、この賤機山城と一体となった戦国期の城として理解することができる。

それでは駿府を5カ国の首都と定めて、ここに136万石の徳川家康の城として築城された「駿府城」とは、どんな城だったのであろうか?駿府を5カ国の本府と定めて天正期に築城された駿府城は、厳密には同13年から工事の命令が出された。「家忠日記」から、駿府城の工事の概要を見てみよう。

工事は同13年(1585)から始まり、同15年に本丸の堀が完成した。翌月に二の丸の石垣が完成し、さらに16年(1588)3月頃から天守閣の工事が始まっている。

当時は、城を築城するということは戦争と同じことであり、昼夜を分かたず休む暇なく突貫工事で進められていた。駿府城は天守閣を含めて、すべての工事が完成したのは同17年(1589)であった。また、この時の天守閣は、小天守閣を持った「連立式天守閣」であったことがわかる。

ところが、「家忠日記」で見る限り、駿府城の規模や天守閣の内部、それに外観などについての詳細は全く記されていない。

徳川家康は、天正期の駿府城を完成させる前に、織田信長が「安土城」を近江国安土に築城した城を見聞していた。これが歴史上、画期的な城であり、後の世の城の見本として城の常識を破った「安土城」であった。

安土城は、従来の山城に立て籠もるといった城の常識を破り、琵琶湖に面して水上・陸上交通の要衝であった安土に城を構えたばかりか、今まで見たこともない「五層七重」の堂々たる天守閣を世に出現させ、従来の常識を破ったことで知られている。

また、内部は狩野永徳の筆による障壁画で飾られており、居城と籠城が可能な城である。徳川家康が自分の目でハッキリと、この安土城を見聞したのは天正10〔1582〕年5月であった。時代の動きを敏感に感じ取る能力を持っていた家康は、この安土城に刺激を受け、おそらく、駿府城築城においても安土城の様式を模倣しているものと推測できる。事実、天正期の駿府城は、いわゆる掻き揚げの城ではなく、頑丈に石積みされた城郭として注目されている。

天正期の、この駿府城築城に際して使用した石材や木材の出所は明らかではないが、作事に使用したと思われる材木が「牧永」から届いた旨が記されている。「牧永」とは、静岡市郊外の「牧ヶ谷」のことか。一方、駿府城の築城に尽力した大工の多くが浜松大工衆であった。

天正期のいわゆる「徳川家康の5カ国統治時代」の駿府には、豊臣秀吉が妹の旭御前の供養のため、駿府に来たり、また、側室西郷局が死去したりして家康は多忙を極めた。さらに天正18年〔1590〕の小田原征伐では、徳川家康は、その先鋒衆を命じられるや、その後、関東に改易された。

理由は、絢爛豪華な駿府城の築城に秀吉が不快感を表わしたためといわれている(静岡県の「中世城館跡」)。このため、徳川家康が再び駿府城を築城したのは、大御所として駿府に移って来てからである。

大御所時代の駿府

徳川家康が将軍職を退いた後の慶長12年(1607)、家康は駿府を「大御所」の地として移って来た。これが大御所政治つまり駿府政権の誕生である。表向きは「御座所移され御閑居所とす」(「駿国雑志」)とあるが、家康は決して駿府を「隠居所」としたのではなく、江戸の秀忠政権に対して実質上は駿府を「謀略の前進基地」として「黒幕政治」を展開する目的があった。

それでは、江戸から駿府に移った家康の居城(駿府城)は、どんな城として築城されたのかを見てみよう。前述したように、徳川家康は天正期にすでに駿府城を築城していた。家康が秀吉の命により改易された後の駿府城には、秀吉の家臣の中村一氏が14万石の城主として居城した。

その後、慶長5年(1600)の関ケ原の役後には中村氏は米子に改昜となり、代わって家康の家臣の内藤信成が駿府城主となっていた。家康は、内藤氏を駿府城から移して近江長浜に改昜して、自ら駿府に来ることになったが、天正期に自分が築城させた駿府城が、その時点でどうなっていたのかまったく史料が今日見当たらない。

大御所として駿府に来ることになった家康は、駿府城及び駿府市街を大改造する計画であったことがわかる。家康の初めの計画によると、駿府城を川辺村辺りにまったく新しい発想の縄張りで駿府城を築城する気持ちがあったらしい。それは、駿河湾沖を航行する外国の大船(ガレオン船)が、安倍川の改修と同時に計画される予定であった運河を通って駿府城のすぐ近くに接岸させようとする壮大な計画であったと推測される。

ところが、安倍山中の標高2000メートルから流路50キロを流れる安倍川は、いったん大雨が降れば、たちまち暴れ川となり、洪水の危険があった。このためか、当初の家康が駿府城を築城する川辺の予定の場所が変更され、結局、従来の位置を拡張する方針に決まった。

「当代記」によれば、大御所徳川家康の新しい駿府城は天正期に造営された駿府城を、さらに「東・南・北」に押し広げたとある。これが今日でも私たちが一部目にすることができる大御所徳川家康の晩年の居城として有名な駿府城の遺構である。

駿府城の工事は、慶長12年(1607)正月23日から始まり、越前・美濃・尾張・三河・遠江の諸大名の助力に始まり、続いて畿内5カ国と丹波・備中・近江・伊勢の大名にも人夫を出させて工事の完成をみている。

このほか、薩摩・加賀などの雄藩も工事に参画し、いわゆる「天下普請」によって駿府城の工事が進められている。

こうして5月23日には本丸と天守台の測量工事が始まり、7月3日には天守台が完成するという猛スピードで工事は進んだ。

一部の殿舎が完成し、徳川家康が駿府城で生活を始めたのは7月3日からという。さらに、8月15日には二の丸も半ば完成し、10月28日に落成したことを「武徳編年集成」は伝えている。

駿府城の本丸・二の丸・三の丸と工事も異例のスピードで進み、大方完成に近づいていた。ところが、慶長12年の12月23日午前2時頃に本丸御殿の大奥から失火があり、天守閣をはじめ、その多くを焼失した。この火災で、家康自身も火事現場から家臣本多正純の家に避難した。

このため、駿府城は再び翌年の慶長13年〔1608〕の正月から再建のため工事の命令が発せられ、8月には「五層七重」の天守閣の上棟が行なわれたと伝えられる。

以上が、徳川家康によって築城された天正期と慶長期の駿府城の経緯である。ところが、駿府城の建造物、とりわけ慶長期に二度も再建された天守閣の外観や、その内部について知る記録類がきわめて希薄である。この駿府城は大御所政治を展開した徳川家康の居城としても、また城郭史の上でも重要な城である。見方を変えれば駿府城は全国の城を取り締まる城の中の城ということができ、また、絶大な権力を持った徳川家康の「カリスマ性」を放った特異な城ともいえる。

最後に、大御所時代の徳川家康の駿府城にかかわる研究の現状を見てみよう。徳川家康の駿府大御所時代の 研究は政治・経済・文化面においても意外に研究が進んでいないのが実情である。ましてや、駿府城そのものの土木工学的研究も遅々として進展していない。こうした現状の中で、今回のテーマである大御所時代の駿府城の土木工学的研究の現状から見ると、5つの注目される研究成果がある。

  1. 桐敷真次郎氏の「慶長・寛永期における都市景観設計および江戸計画との関連」
    この論文は、大御所の城である駿府城が霊峰富士(富士山)を背景として絶妙なバランスを意識して設計されていることを総合的に、かつ景観的に研究している。
  2. 城戸久氏の「駿府城慶長造営天守閣考」
    この論文は、駿府城天守閣(慶長期の天守閣)について初めて学問的に研究したもので、昭和14年に発表された。この研究成果が今日までかなり駿府城の天守閣の研究を左右していた。
  3. 村田健一氏の「慶長造営駿府城天守閣に関する研究」(昭和54年)
    この研究は、城戸氏の研究成果を踏襲しつつ、氏の誤謬を正したもので、今日の駿府城天守閣の研究の到達点である貴重な論文。
  4. 平井聖氏の「駿府城本丸御殿について」(昭和48年)
  5. 松本長一郎氏の「駿府城本丸御殿について」(昭和59年〕
  6. 静岡市教育委員会「駿府城学術調査研究報告書」〔平成3月〕
  7. 静岡市教育委員会の「大御所徳川家康の城と町」〔駿府城関連史料調査報告書〕〔平成11年〕

駿府城下町図以上、特筆される駿府城に関する論文を紹介した。このほか、駿府城に関する一般的な読み物も幾つかあるが、以上の7点の研究は駿府城研究の今日の到達点として位置づけられるものである。

さて、以上の研究成果を参考にして駿府城について見ると、駿府城は江戸城・名古屋城・姫路城のように大規模な城ではないが、大御所徳川家康の居城として駿府城下町と共に抜群の美を追求した城ではなかったかと結論づけられる。

とりわけ、天守閣は当時のどの城の天守閣よりも技術的にも意匠的にも工夫がされており、豊富な材料と高度な技術を持った職人によって築かれた天守閣史上の傑作ではなかったかと推測される。ところが、慶長12年に焼失した天守閣に至ってはまったく史料を欠いているとしながら、同13年に再建された天守台の土塁は天守閣建築上、初期の珍しい型式を持つ「天守曲輪」〔天守丸構造とも〕の中に建てられたものであったことは、ほぼこれらの研究で結論づけられた。

つまり、天守閣を守る土塁が周りに巡らせられ、軍事的配慮がうかがえると共に、御殿型式の「五層七重の天守閣」であったことがわかる。

駿府城の普請に力を尽くした人物が小堀遠州であったのに対し、作事に尽力した人物が大工の棟梁中井大和守正清である。共に、当代切っての生え抜きのテクノクラートが担当した意義も大きい。

なかでも、中井大和守正清は駿府城のほかに江戸城・名古屋城・伏見城・二条城、さらに御所や知恩院なども手がけた天才的大工の棟梁であった。さて、それでは駿府城を外観的に描いた当時の史料らしきものがあるであろうか?

この点、日光東照宮に伝わる国の重文「東照社縁起」(狩野探幽筆)に描かれた駿府城天守閣が今日高く評価されている。

駿府城御本丸御天主台跡図この縁起絵巻は探幽が寛永13年から同16年頃に描いたとされている。しかし、慶長13年(1608)に再建された駿府城天守閣は、寛永12年(1635)に焼失し、再び再建されず、天守台のみが明治初年まで現存しただけであった。しかし、探幽は焼失する以前の駿府城を見ているため、この縁起に描かれた天守閣が駿府城そのものである公算が強い。

なお、駿府城が焼けてしまったあとだけに拘束されることなく、探幽は駿府城天守閣を正しく描いた可能性がある。

最後に駿府城は天下の数ある城の中で、もっとも豪華で美しく、大御所徳川家康のカリスマ的城であると共に、江戸を守る外郭の「城」であったともいえるが、いまだ多くの謎に包まれた城でもある。

次へ 戻る

ページの先頭へ