大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

家康公の史話と伝説とエピソードを訪ねて

井川地区

大 中 小

井川一揆と安倍大蔵(あべのおおくら)の菩提寺

竜泉院・安倍大蔵菩提寺〔葵区井川〕永禄(1558-69)のころ、井川の殿様(安倍大蔵尉元真(あべおおくのじょうじもとざね))は今川氏真に仕えていた。ところが永禄12年(1659)、武田信玄によって駿河が攻められると今川氏真(今川家10代)は敗れて掛川に退いた。今川家臣の岡部正綱(まさつな)兄弟と安倍元真、息子の弥一郎信勝(のぶかつ)らが籠(こも)って防戦した。流石(さすが)の信玄もその武勇に感心して、臨済寺の鉄山和尚を仲介者として講和した。岡部は武田家臣となったが、安倍親子は井川を守っていた。

武田は井川の田代・小河内の郷民に安倍を討ち取るよう命じ、郷民は一揆を企て安倍氏の陣営に夜襲をかけた。安倍一族は一時的に山を下り、遠州に走って徳川の家来となった。安倍は徳川に支援され、再度井川を治めた。その後の安倍は、武田の山城や砦を次々落とし、その功績によって家康から「有度郡八幡村・中田村・宮竹村・益津郡焼津村・田尻村・矢久次村・志太郡梅地村・安倍郡井川七ヶ村・遠江国千頭・利果・大間・鷺坂村」を賜(たま)わり、この地域生え抜きの豪族として活躍した。

そんな安倍大蔵の活躍から、家康公は駿府に阿部大蔵のために屋敷を与えられたことから「安倍町」の町名の由来となった。

安倍家

安倍の家督を弥一郎信勝が継ぎ、徳川家に属し家康公の関東討入りに従って、武州岡部に移り、知行5,300石を賜った。信勝の家督は信盛(のぶもり)が継ぎ、慶安2年(1649)には大阪城代を勤め1万石の加増により大名に列席した。

海野家

一方家康公の関東移封に際し、海野弥平衛本定(もとさだ)が井川の家督を継ぎ井川金山奉行や安倍山の御材木御用、また刎橋(はねばし)の建設などにも従事した。特に家康公の御用茶については、その全般について采配を振るい駿府城にも登り御用を務めた。また大日峠のお茶小屋の警備に、玉川柿島の朝倉氏とともに従事した。

海野弥平衛本定の次男兵左衛門は、父と共に大御所家康公に仕え駿府城内では茶人の宗圓と共に茶道に従事した茶心のある武人であったという。彼は後に徳川頼宣に従い、紀州徳川家に仕え子孫は勘定奉行などを拝命した。(「龍泉院のパンフレット」)

井川の龍泉院の近くには海野屋敷が置かれ、ここには武器弾薬を秘かに収め置き、駿府で事が起こった場合の特別の軍事要害となっていたという(「駿河巡見本集」)。

お茶壺屋敷

お茶壺屋敷への矢印、大日峠道標、観光用・お茶壺屋敷〔大日峠〕井川大日峠には、大御所徳川家康公に献上するためのお茶を保存するお茶壺屋敷があった。山間僻地の山奥に貯蔵された理由は、冷蔵庫のない時代のために自然の冷蔵庫として標高1,000メートル余りの大日峠が最適であった。お茶壺屋敷には、駿府周辺の良質な茶(足久保茶)を保存した。

秋の彼岸頃には、御茶道師範宗圓の手によって駿府代官所にお茶壺が運ばれると、「口切りの儀式」といって御茶壺が開封され吟味された。ここから駿府城に運ばれて家康公の飲用茶となった。大日峠のお茶壺屋敷からは、俗に代官屋敷まで駿府のお茶壷道中と呼んで御茶が大切に運ばれた。

お茶壷屋敷には天下の名茶壷が集められ保存されていた。お茶もさる事ながら茶壷そのものが大変高価なものだったため、井川の殿様と呼ばれた海野弥平元定と玉川柿島の朝倉六兵衛在重(あさくらろくべえありしげ)が管理と警護の任にあたった。お茶壷屋敷は正徳年間(1711-16)廃止されるまでの100年間あまり、将軍家の御用茶を提供していたという。

保存された茶壷そのものが大変貴重な壺で、壺一つで天下が動いたという逸品であった。

そんな中にあって、「山口・大般若(だいはんにゃ)・志賀・捨子(すてご)・金森(かなもり)・一文字(いちもんじ)・玉虫・楊柳・清香(せいか)」などの呼び名で知られた御茶壺が、大日峠のお茶壺屋敷に保存されていた(「慶長7年(1602)御茶詰候御壷渡申目録」・「駿河巡見本集」)。

井川の笹山金山

井川の笹山金山の採掘は、今川時代の享禄年間(1528-32)の頃からという。家康公の駿府大御所時代には、徳川幕府の組織的産金のため梅ケ島金山同様に最盛期に入って賑わっていた。ここには常時数百人の採鉱者や役人が駐在し、採掘人夫も身分が高く佐渡金山の人夫のような惨めな姿はここには全くなく身分が保証された技術者であった。

人里離れた山間僻地の宿舎には、慰安(いあん)のための女郎屋や芸妓置屋もあって、夜になると三味線の音も聞こえたため「三味屋敷」という地名が残っている。こうした井川金山の繁栄のため、家康公は大井川でも井川だけは橋を架けることが許されていた。これが刎橋(はねばし)と呼ばれ、官費での架橋は幕末まで許されていた。そのため、明治9年(1876)まで刎橋が存在したという。このため大井川に橋が架けられていなかったという定説は、井川では当てはまらない。残念ながら井川金山の遺跡は一部を残し、その多くが昭和32年の井川ダム建設によって水中に没した。

次へ 戻る

ページの先頭へ