大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

駿府キリシタンの光と影

駿府から始まったキリシタン信徒迫害

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「キリシタンを迫害する悪皇帝(徳川家康)に相当の報を与え給え。何となれば、彼の政治を行ふ間は善き事を行なふの望みなきが故なり」(「ビスカイノ金銀島探検報告」)このように、スペイン人にうらまれた家康の駿府大御所時代の記録は、残念ながら国内にはあまり存在しない。しかし生死を賭けて来日したキリシタン宣教師らの記録は、海外に数多く残されていることが最近の研究でわかってきた。それらの記録から、「駿府のキリシタン」を取り巻く当時の環境から見てみよう。

駿府にキリシタンの信仰がいつ入って来たかは明らかではない。慶長2年(1597)ごろからはすでに始まっており、駿府市街と安倍川付近に南蛮寺(教会)17世紀の駿府教会地図が2カ所あったといわれている。慶長17年(1612)の「日本全国布教分布図」(山川出版「日本史」所収)によると、駿府の教会設立は江戸より早いことがわかる。駿府におけるキリスト教の布教は、当然それ以前であることは明白だが、資料に登場するのは、慶長12年(1607)閏4月にイエズス会の宣教師パジェス一行が駿府城で家康に拝謁したとき、駿府と江戸での布教を願い出たのが最初である。(「パジェス日本邪蘇教史」)。

しかしこれより先、すでにフランシスコ派のアンジェリスが駿府で開教しており、1カ月に240名余の信者が洗礼を受けていた記録もあるという。

こうした時期に、先に述べたスペイン国王使節セバスチャン・ビスカイノが来日し、駿府城で家康に謁見した。皇帝家康と無事に謁見が済むと、ビスカイノは宿に帰った。遠い異国から来たビスカイノに会うために、キリシタン信者たちだけでなく家康の息子(義直・頼直・頼房)らをはじめ多くが訪れた。連日、異国の話を聞きに来る者が大勢いたという。それは慶長16年(1611)のことで、このとき、駿府のキリシタン信徒たちの熱狂的な歓迎を受けたことが彼の記録に次のように記されている。

「我々は旅館に帰りしが、同所に皇帝の宮中の婢妾女官と称する方可なるジュリアといふキリシタン、大使を訪問し、ミサ聖祭に列せん為め待ちいたり。この婦人を歓待し硝子の玩具その他の品を与へしが、影像珠数その他信心の品に心を寄せたり。彼女は善きキリシタンなりと伝へられしが、その態度これを証明すと思はれたり。(駿府の)日本人のキリシタン多数、大使に面会し、またミサ聖祭に列席し教師等に接して慰安を得ん為めに来り。彼等より好遇せられしこと、及び他の人々が我等の正教の事を聞き、此処に述べず。この事は実に嘆賞すべきことなりき」(「ビスカイノ金銀島探検報告」)。

大奥の侍女でキリシタン信者であるジュリアがビスカイノに、「ミサに同席させて欲しい」旨を願い出たのである。駿府は、この時点では信者にとっても平和な信仰の地でもあったが、やがて迫害の嵐が吹き荒れる前夜でもあった。

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