大御所四百年祭記念 家康公を学ぶ

大御所・家康公史跡めぐり

林香寺

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林香寺 JR由比駅から富士急行バス10分、入山入口下車、徒歩約10分

林香寺家康公は関ヶ原の戦いで西軍を破り、慶長8年に江戸幕府を樹立した。こうして天下泰平の基礎を作り、同12年には駿府城を造り大御所として天下に采配を下していた。そんな家康公は、鷹狩りの時に由比方面に出掛けるために北田に御殿を建てて泊まりがけで鷹狩りを楽しんだ。
 この御殿は井原西鶴が元禄年間江戸へ下り、東海道由比宿を通過した時に「和瀬川を渡りて、右に塩焼き、左に御殿、船ヶ島」と詠ったように家康公ゆかりの御殿が登場した。さてそんな御殿を宿舎として家康公は由比の山中での鷹狩りを楽しみ、狩には由比の権蔵光広と岩辺郷右衛門寧広を伴った。一日中狩をして暮七ツ〔4時〕頃、野田・鷹宿・高山を経て、山田から平へ下ると、そこに小さな庵があった。その辺りは地元で東山寺と呼んでいた小さな村だった。
 庵は林香寺という臨済宗の寺であり、「ここで一休みしよう」ということになった。一同は下馬して馬の世話をしていた。すると涼をとっていた家康公は、「冷水を一杯所望ジャ」といったので、お供の格さんが庵に駆け込んでこのことを住職の天輪和尚に告げた。すると和尚は、大きな器になみなみと冷水を湛えて家康公の御前に捧げた。家康公が器を手にとっていざ飲もうとすると、水の上に何か小さな葉が浮いており、何とも云えぬ香ばしい匂いがした。
 家康公は、控えていた和尚に、
「これは何という草の葉じゃ」と尋ねると、
「ハイ、山椒と申しまして、昔、開山禅師が唐に渡った際、蜀という国の西湖から携えて来たものを撒いて得たものでござります」、と云うと家康公は、
「これは珍しいものじゃ一つ毎年屋形へも納め、江戸へも届けて味わいたいものじゃ」
「ハイ、畏まりました。宿のお役人様えおはかりしてお納めいたします」と言うと、家康公は矢立求めて、サラサラと何かを書いて和尚に渡したという。それの紙には、牛沢から妙沢までの間の十三石一斗余りの知行地と山林竹木の諸役免除の朱印状を与えてくれたという。寺では、山椒の縁で、家康公から寺領を与えられたのである。これが香林寺の物語として語られ、また『静岡県史話と伝説中部編』に記されている。

番外

1.静岡県立中央図書館〔静岡市駿河区谷田〕葵文庫
 徳川幕府が、文治を重んじて儒学を幕府の基本的思想としたのは、家康公から始まっている。特に家康公が、晩年に駿府〔静岡市〕に移り住み、駿府を大御所政治の舞台としたことから、駿府は栄誉ある地位を占めるにいたった。家康公は駿府城内に「駿河文庫」を創設し、その責任者として林羅山を置いた。
 家康公没後幕府はその趣旨を継承し、江戸幕府の教育施設としての役割を持たせた羅山の家塾の創設のため寛永7年〔1630〕に上野忍岡の土地1400坪を与えたのがはじまりであった。元禄3(1690)年には、五代将軍綱吉の命令により神田湯島の6000余坪の地に移され、孔子が生まれた地にちなんで昌平坂と名づけられた。
寛政9年(1797)には幕府直臣の子弟の教育を目的とする幕府直営の昌平坂学問所となり、以後幕末まで幕府や諸藩の多くの人材育成機関として、明治2年(1869)には東京帝国大学の前身である大学校と改称され1871年廃止された。

2.静岡市立清水中央図書館
 静岡市立清水中央図書館には、徳川慶喜公が所有していた膨大な「徳川文庫」〔6500点余り〕を所蔵している。これらの書籍の中には、全国でもここにしか無いとされる史料が90点余りあり、中には天皇陛下に天覧されたことを意味する判が押されている史料もある。
 一部には、江戸幕府の昌平坂学問所が所蔵していた印がある書物も保存されている。徳川研究のための、貴重なコレクションとしてこれから広く注目される書籍である。静岡市には、静岡県立中央図書館の葵文庫と、清水中央図書館の徳川文庫に注目し、静岡市を「徳川研究のメッカ」にしたいものである。

3.東京・銀座二丁目〔駿府から江戸に移った銀座〕
銀座発祥の地 銀座二丁目  東京の銀座は有名であることは誰でも知っている。ところが、この銀座のルーツが駿府にあることは知る人は少ないだろう。駿府銀座発祥は、慶長13年〔1608〕大御所・徳川家康公が、京都伏見の銀座を駿府に移したことにはじまる。その場所が両替町(1~6丁目)であり、両替町二丁目に銀座役所が置かれていた。地内には金銀銅の両替商〔今日の銀行業〕が置かれ、大御所時代の日本経済の中心として栄えていた。
ところが慶長17年〔1612〕、駿府銀座は江戸京橋に移されることになった。最初江戸の地名は、駿府の両替町から移転したことから「新両替町」と呼ばれたが、二丁目に駿府同様に銀座役所が置かれていたことから「銀座」と広く呼ばれていた。駿府から移転した東京の銀座は、今日では「世界の銀座」として経済や文化の中心地となっている。

注記
駿府銀座が江戸に移転した時、江戸に移った駿府の銀座江戸銀座の町割〔都市計画〕も駿府型町割が導入された。静岡の両替町は、最初1-6丁目まであったが昭和20年9月1-2丁目に改正した。

東京金座〔日本銀行本店〕
 大御所家康公が駿府城下町を造った時の慶長年間、ここ駿府には小判を鋳造する金座があった。ここ駿府で造られた小判を「駿河小判」と呼んで、小判の中の金の含有量が高く非常に価値のある小判として注目されていた。それまでの日本は、戦国時代のため自分の領地内だけに通用する通貨を造っていたが、国内を統一した家康公は、全国に通用する通過として小判や銀貨を造った。
 駿河小判の誕生は、隣国の武田信玄が「甲州金」と呼ばれる便利な通貨を考え、いちいち分量を量ることなく通用するお金を真似たものという。幸い吉川守隋という優れた秤師がおり、その秤を「守隋」と呼んで家康公は豊臣の秤師「神」と正確さを競争させて完璧な度量衡をつくった。昭和の中頃まで、七間町には川瀬と呼ばれる秤屋があり、今川時代からの由緒ある秤座の伝統を持つ名家である。
 さてその守隋の秤を使って、駿河小判を鋳造していた場所が現在の日本銀行静岡支店の場所であり、現在は「金座町」と呼んでいる。金座の責任者が後藤正三郎光次で、身分ある後藤家が金座座頭として小判を鋳造していたのである。金座は慶長17年〔1612〕、両替町にあった銀座と共に江戸に移った。江戸の金座があった場所、そこが現在の日銀本店の場所である。
 ここにある貨幣博物館には、駿河小判が展示されているので見て戴きたい。入場は無料であり、駿河小判ばかりでなく、世界の貴重なお金を見ることができる。

4.東京・日本橋日本銀行本店貨幣博物館〔駿河小判見学〕
 江戸の「銀座」「金座」は駿府から移った。江戸時代の初頭には、全国的な貨幣を確立するために駿府で「駿河小判」が鋳造されていた。さらに経済活動の基本となる度量衡は、家康公が今川時代の秤座(吉川守随)の制度を踏襲し、今川の秤を江戸幕府に採用した。こうして、煩わしい兌換方式を止めてどこでも使える通貨が生まれた。それが小判の鋳造や金本位制度と度量衡の確立であり、駿府が全国に与えた影響は大きい。
 駿府で小判が造られていた金座も、慶長17年〔1612〕に江戸の金座と合流して日本橋に移転した。場所は江戸の中心日本橋の近くで、現在の地名は東京都中央区日本橋本石町2-1-1の日本銀行本店のある場所である。江戸名所を論ずるとき、必ず登場するのが駿河町である。駿河町の由来は、富士山がよく見えるので駿河町ということになっているが、駿府から江戸の町づくりに参加した関係者が、駿府の七間町から見た城と富士山の景色を江戸に再現するため、丁度駿府と反対側から見える富士山と自分たちの生国を懐かしみ駿河町としたという。
 このことは岡本綺堂の「江戸の町人」という随筆のなかで、「真正面に富士が見えたので、かく名づけたと言う者もいるが、実は駿河の者によって開かれた町なのである」と述べている。駿河衆の活動の場は駿河台辺ばかりでなく、その勢力はやがて湯島に広がった。(ところが三河衆も負けてはおらず、駿河町の近くに三河町を作った。)駿河町と唱えるこの町は、元和2年(1616年)徳川家康の死去にもとない、お附きの駿府の中間・小人・駕籠方の「三組の者」に与えられて駿河町となったという説もある。後の元禄9年(1696)、三組の御家人の拝領の地であった由来を大切にし「三組町」と改めた。この近くの坂を「三組坂」と名づけられたが、そこは今では湯島三丁目となる。
江戸期の『御府内備考』によると、1696 (元録9) 年に駿河町に町屋が開かれ、その後に駿河町は三組町と改称されているという異説もある。

5.東京・新宿〔旧内藤新宿〕と新宿御苑
    新宿御苑 新宿とは江戸の中でも新しい宿場町であり、徳川家康公とともに天正時代に駿府に居た家臣内藤氏が拝領した膨大な領地であった。内藤氏が拝領した当時には宿場がまだなかったが、元禄11年(1698)その当時の浅草阿部川町の名主であった喜兵衛(後の高松喜六)が、同志4人(市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛)とともに駿府ゆかりの内藤氏に懇願し、現在の新宿区新宿三丁目に開設した宿場町である。新宿の元は甲州街道と青梅街道の分岐点、さらに鎌倉街道が交差する追分にあたり、当初は4里2町(約16km)離れた高井戸に宿場がありあまりに不便であるとして、喜兵衛が同志四人とともに、 五千六百両の巨額の上納金を納める条件で開設した。
 昔は内藤新宿と呼ばれ、軍事的にも重要なため、内藤氏が支配していた。その内藤氏の住居が現在の新宿御苑であり、その面積は駿府城の1.6倍に相当する。
 内藤氏は家康公から信頼され、江戸を守る軍事的拠点としてこの地に領地を拝領したものである。新宿は駿府の関係者が開拓し、今日の巨大な新宿の基礎となったのである。

6.東京杉並区今川町
  観泉寺 竹千代は臨済寺の雪斎和尚を師匠とし、この手習いの間で武将としての学問を身に付けていた。このことが、後の家康公と徳川文化に多大な影響を与えた。家康公は没落した駿河の今川家最後の武将であった今川氏真の豊かな教養と見識を買って「高家」とし江戸幕府の文化・儀典・朝廷折衝などの重大な役職を与えて幕府の臣僚に加えた。
このため江戸に移った今川家は、徳川幕府の中で教育・文化・皇室との儀式の面で大きな役割を幕末まで続け、特に武士や庶民教育に多大な影響も与えていた。その江戸今川家の菩提寺として、観泉寺が杉並区今川町一丁目に現存している。広大な境内は、静岡市内では見ることが出来ないほど広く、また寺とは無関係であるが、杉並の大地主の家が寺と隣接し、武蔵野の原野を彷彿とさせる広大な敷地が広がっている。近くには今川家が崇敬した井草八幡宮があり、今川家伝統の流鏑馬や日暮の神事として知られる江戸時代から伝統ある行列が見ものとなっている。

7.東京神田湯島
 慶長9年(1604)、44歳の藤原惺窩に入門した家康公は、翌年に京都二条城に惺窩を招いて仕官の意志を正した。本人は山居の生活を望み、代わって弟子の羅山を推薦した。林羅山は徳川幕府と深く関わり、大御所の駿府城下に定住し家康公の儒者として駿府城内で講義していた。
家康公の没後は林家が官学の教えを伝承し、江戸幕府の教育機関「昌平坂学問所」の元を築き、江戸の武士たちの教育に専念した。その流れは、湯島の聖堂→昌平坂学問所→静岡学問所→東京大学へと数奇な推移を経過している。そのルーツが駿府ということになる。

  1. 林羅山は、家康没後に江戸に移り、幕府の朱子学振興に努めた。最初は私塾を上野の忍ヶ岡の廷内に孔子廟を建てた。
  2. その後明暦の大火で焼失したが、幕府内でも重きを置かれていたことから、綱吉の時代に現在の湯島に聖堂を移した
  3. 湯島聖堂
  4. 寛政時代に林家管理で、幕府直轄の昌平坂(湯島聖堂)の元を開く
  5. 徳川幕府崩壊により、明治初年に駿府に移され、駿府学問所(静岡学問所)となる。
  6. 学問所が明治5年に廃止され、東京大学が出来ると、東大の母体となり、静岡の教授・生徒がそのまま移る。
  7. 東京大学の学長は、明治のはじめは駿府学問所の教授が務めた
  8. 東京大学になった駿府学問所の学者たちが中心となり、日本最初の論文集を刊行した(明六社)。全てのルーツは、家康公が駿府城で学問の集大成を林羅山に命じたことが発端で、それが静岡にもどり、また東京に移るという数奇な運命をたどり、日本に多大な影響をあたえたのである。

竹千代の勉強部屋から湯島の聖堂まで
 学問に情熱を燃やした家康公の原点、それは静岡市葵区大岩の今川家菩提寺の臨済寺で人質時代に雪斎和尚から武将と成るための経綸〔学問と心構え〕を学んだことである。その場所が、臨済寺の「竹千代手習の間」であった。家康公が徳川幕府の学問樹立とその実践は、駿府に招いた林羅山が朱子学〔孔子の教え〕として具体化した。したがって家康公没後も、家康公の精神はその後の湯島の聖堂(昌平坂学問所)にたどり着く。
 昌平坂学問所は徳川幕府が瓦解すると、その本体は静岡藩〔70万石〕に移った。静岡学問所は昌平坂学問所の精神を受け継ぎ、やがて廃藩置県によって教育の中央集権化に伴い、東京大学の前身となった。そのルーツは臨済寺の「竹千代手習の間」であるとも考えられる。

8.東京・元浅草町〔元阿部川町と孫三稲荷〕
阿部川会館の掲示板 阿部川町の名前の入った法被、それを現在も着て行われる浅草名物の「孫三稲荷神社と家康」を偲ぶお祭りは健在。その由来は天正年間(1573~92年)、家康は「孫三(まごぞう)」と名乗る者に馬の轡を取らせ安倍川を渡った。ところが、世話になった孫三をいくら探しても該当者する人物が一人もいない。調べてみると、安倍川の川辺に「孫三」の名を持つ祠があり、稲荷の化身が家康公の安倍川の川越を助けてくれたものとして、以後、家康公と浅草住民は篤く孫三稲荷神社を信仰していた。
 阿部川町が出来たのは、天正18年(1590年)関東入国の際、家康とともに江戸阿部川町の龍宝寺に移住した駿府の人たちが、故郷の阿部川の地名と「孫三稲荷」を江戸に移したのがはじまりという。この説明をしてくれた方が、元浅草(阿部川町)の大川さんである。この町は、今も昔の名前(阿部川町)が町の隅々まで生きていた。そんな阿部川町の隣町には、俳優の永六輔さんの実家のお寺がある。大川さんと永六輔さんとは幼馴染みで、一緒にむかし遊んだ仲間だと聞いた。
 阿部川三昧の浅草の町、現在は元浅草と呼んでいる。つまり浅草のルーツだ。説明してくれた大川さんは、都内でも著名な仏師である。大川さんの工房の近くに孫三稲荷がある。その横は、町内会の集会所として「阿部川会館」の名前がついている。その前には、阿部川町の著名人柄井八右衛門(からいはちうえもん)という、江戸川柳の生まれた所でもある。川柳は、没するまでの足掛け33年間に300万句に及ぶ寄句を集め、当時の前句附点者の中でも際立った人気を集めた。そんな柄井川柳の卓越した選句眼と選句基準の独自性が、実は今日の時代にも受け入れられたことを意味する歴史的場所、そこも阿部川町である。
阿部川町の龍宝寺  毎年、9月23日の柄井川柳の命日は、川柳を慕う川柳家が全国から集まり、阿部川町の龍宝寺で川柳忌が行われている。同寺境内には、辞世といわれる「木枯の句碑がある。そんな阿部川町の名主が、新宿を拓いた人物であり、その名主の計画を支持した人物が内藤氏、つまり天正期から家康公の近臣として江戸に移り新宿御苑に住んで江戸を守った侍であった。 この二人の人物の功績で、「内藤新宿」つまり現在「新宿」が出来たことも駿府と無縁ではない。

9.江戸城天守台と本丸跡江戸城
武蔵野台地で、最も拠点を構えるに適した場所。そこが江戸城(現在の皇居)である。そのむかし平家の有力者江戸重長の領地であったが、太田道灌が江戸氏を追い払い、江戸城を築いた。ところが太田道灌も文明18年〔1486〕、雇い主の上杉定正に暗殺されると江戸城は自然消滅し、太田道灌時代の繁栄をたたえる文化も姿を消した。
この土地に国替となった家康公は、積極的には江戸城と城下の再建に力を入れなかった。理由は、再び国替えになることを意識していたためという。事実、家康公は49歳から75歳までの26年間、江戸に留まることが少なく、専ら京・大坂・駿府でその多くを過ごしていた。江戸に移ってからの家康公は、当時の戦略物資と塩の流通を意識して江戸の整備をしていた。
 例えば利根川対岸の東国随一の製塩産地〔行徳〕から江戸までの輸送江戸城を確保した。つまり行徳と江戸を結ぶ臨海運河〔後の小名木川〕を機能させるために、江戸前島の根元を道三堀運河で切断した。これが家康最初の大工事で、江戸の湊造りが優先された。その後、慶長3年〔1598〕秀吉が亡くなると具体的な行動を開始した。とりわけ慶長8年〔1603〕征夷大将軍になり、江戸に幕府を開設すると天下普請の名目で全国の大名を動員して江戸の大工事を命じたのである。
江戸城天守台 江戸城総構の完成江戸城の総構が完成するのは、慶長13年〔1608〕頃であることが、「慶長十三年江戸図」で確認される。それによると、溜池を取り込んだ南側の外郭の堀ができ、北側を囲む神田川を掘り、平川の流路を変える工事が完成していないことがわかる。こうして武家や敷地が沢山確保されるが、家光の時代になると二の丸の武家地が取り壊され江戸城そのものが拡張され最終的に完成の時期に近づいていく。

江戸開発のプロセス

  1. 天正18年〔1590〕家康江戸に移り、軍事を優先し港の整備と飲み水確保
  2. 慶長3年〔1603〕秀吉が没すると、家康江戸開発に本腰
  3. 慶長8年〔1603〕家康征夷大将軍就任
  4. 慶長10年〔1605〕征夷大将軍を辞任
  5. 慶長12年〔1607〕家康駿府を大御所の地として駿府大御所政治スタート
  6. 元和2年〔1616〕家康が没すると、駿府の武士団江戸に移転
  7. 元和6年〔1620〕江戸の大改革スタート
  8. 寛永16年〔1639〕江戸の大改革ほぼ完了

日光東照宮 家康廟
  家康公は元和2年〔1616〕、駿府城内で75年の生涯を閉じた。直ちに御遺体は久能山に埋葬され、翌年には現在私たちが目にする久能山に社(東照宮)を造営しお祀りした。この社の造営も、家康公お抱えの大工の棟梁であった中井大和守正清であった。家康公の葬儀は、天海僧正の主張する山王一実神道に従って家康の霊を権現(東照大権現)の神号で祀るよう主張した。山王一実神道とは、伊勢神道の影響もあり天台の教えと神道とが融合した説とも言われている。
家康公は遺言によって、日光に埋葬された。以下、日光東照宮の公式ページよりご参照願いたい。
 「日光東照宮は、元和3年 (1617)徳川家康公を奉祀し創建されました神社であります。二代将軍秀忠公により造営された創建当初の社殿は、20年後の寛永13年(1636)三代将軍 家光公により建て替えられ、今日の絢爛豪華な社殿群となりました。これを、「寛永の大造替」と言います。
 現在の国指定文化財(国宝、重文)の建造物は、その時建立された木殿や陽明門など35棟を中心にその前後に建立されたものや、大名の奉納による五重塔や石鳥居など55棟になります。(指定では国宝8、重文34)。これらの建造物は、何れも江戸初期 寛永文化の優れた絵師、名工達、技術集団によって生み出された我が国を代表する宗教建築であります。
 さらに、平成11年 (1999)には、人類のかけがえのない宝として、ユネスコの世界遺産条約に基づき『世界遺産』に登録されました」(日光東照宮の公式ページより)。   以上
〔文責並びに執筆 黒澤 脩〕

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